シリーズ 過疎問題を考える3

ひかり110号記事(R2.3.1号)
2020/3/1

シリーズ 過疎問題を考える
  昨年のことでしたが、80代後半のご門徒からこのような悩みを聞かされました。軽トラのキーを息子に取り上げられ、その後息子同伴で運転免許証を自主返納した。これまで自由にどこにでも行けていたが、今は自転車で行かなくてはならないことに人生つまらなくなったと嘆いておられました。
 高齢者の交通事故など社会問題となっている昨今、過疎地域に住む私たちが自動車を運転できなくなればどういうことになるのか想像はたやすくつきます。私の自宅から最寄りのバス停まで約2キロ弱、内原方面行きのバスは朝夕合わせて一日5便、買い物、通勤、通院、金融機関など全ての生活がままならなくなります。徒歩圏内にはコンビニやスーパーはもちろん、銀行もありません。
 せいぜいタバコ屋と郵便局が2キロ先にあるくらいです。
 人口減少社会、少子高齢化社会は全国共通の問題です。教区内の過疎地以外に住む住職も、過疎化が進んでいるのでご門徒の数が年々減少しているとしきりに話されます。しかしそれは単に人口が減少し、少子高齢化が進んでいるだけであって過疎ではありません。過疎というのはその地域の人口が大幅かつ急激に減少したがために不活性化し、それまでできていたあらゆる機能が低下し、生活を続けることが困難な状況であることを指すのだと思います。つまり、バス路線が廃止され、スーパーがなくなり、代わりとなるサービスなどもなく、その結果、住み慣れた地域で生活しづらくなることです。それは住民の物質的満足感のみならず、精神的な不安要素でもあるでしょう。例えて言うなれば、軽微な用事でも往復タクシー利用することが年金生活者の家計に大きな負担となります。過疎地の住民の思いは、そこに足を踏み入れて生活してみないと分からないのです。
 前号では「信心の過疎化」を取り上げましたが、過疎による精神面での不安要素が解決しなければ、お寺の護持やお参りすらままならないのではないでしょうか。それにより寺院の運営に影響が出るのは当たり前です。
 仏教・真宗の教えは、今私が抱えている苦悩や問題に応用できなければ意味はありません。自他共に心豊かに生きることのできる社会を実現するために、いったい我々に何ができるのでしょうか。過疎対応支援員として過疎地の現状をじっくり検証していくなかで、自坊の残された可能性を模索し、寺院活性化、存続のために何をすべきかを問わなくてはならない状況にあることは確かです。 
ご門徒の皆さんと共に、地域活性、寺院活性に繋がる名案(アイデア)を語り合う機会が頻繁にお寺でなされることを期待したいと思います。
(楠原)