「徳本さんで日高おこし隊」の特設ページです

私たち「徳本さんで日高おこし隊」は、H29年10月に修行される念仏行者徳本上人の200回忌法要を機縁に「ふるさと日高」を元気に、活気づけようと地元有志中心で立ち上げました。既に、浄土宗日高念仏大法会奉修委員会をはじめ、念仏講、徳報会、地元の皆さんなどによる諸活動がなされて来ましたが、私たちもまちおこしの一端として各団体と一致団結、協力して法要の円成に向けて盛り上げていきたいとの思いであります。どうか私たちの趣旨をご理解の上、何卒ご支援ご協力をお願い申し上げる所存であります。         平成28年6月

「日高おこし隊」には次の2つの意味が隠されています。
1.日高地方にお越し下さい。観光・旨い魚でおもてなし。
2.日高ふるさと興しでふるさとを元気にします。

日高が生んだ念仏行者「とくほんさん」

江戸をはじめ全国の庶民の苦難を救った清貧の念仏行者。
生涯を修行と布教活動に捧げ、民衆の中に生き、皇族・貴族・将軍家・御三家・御三卿・諸大名をも魅了した名僧。

 徳本上人(1758~1818年)は、江戸時代中期、日高町(旧志賀の庄久志村)に産まれました。
 4歳の時から念仏を行い27歳で出家。想像を絶する荒修行を続け、40歳を過ぎてから布教のため日本各地を行脚。11代将軍家斉公の母君が危篤の折、江戸城に登城し、念仏を授けたところ数日のうちに回復。帰依者は皇族・貴族・将軍家・諸大名から一般庶民にまで及び、参詣者が一日数万人にのぼることも。徳本文字とよばれる特徴的な「南無阿弥陀仏」の名号は丸みを帯び、終筆がはねあがる。上人は念仏を唱える者に数え切れないほどの名号を配られました。全国に千基以上残る石碑(名号碑)は活動の広範さと、民衆信仰の深さを裏付けています。徳本さんは説法に和歌を取り入れたことでも知られ、晩年、信州地方を旅しており、小林一茶が徳本さんを詠んだ句も14首あります。
 徳本さんは文政元年(1818)61歳で江戸小石川一行院にて往生されました。
 妙願寺にほど近い、徳本上人生誕地に建つ「誕生院」は、徳本さんに帰依した紀州藩主治宝公が建立。徳本さんゆかりの貴重な品々が数多くおさめられています。是非一度お立ち寄り下さい。

和歌山大学観光学部学生と日高地方巡り H28.7.3(日)

梅雨の合間の晴天となった7/3、和歌山大学生5名が日高を訪れ、1日がかりで「徳本さんで日高おこし隊」会長ら4名と共に、日高地方の名所を巡った。
一行がまず向かったのは西山ピクニック緑地。山頂は雲で覆われ、いつもは眺めがよい日高平野もうっすら。煙樹ヶ浜・日高川河口・太平洋もボンヤリ景色でした。次に、中志賀三叉路にあるクエのモニュメントで町おこしのメインでもあるクエ(九絵)の説明を受け、いよいよ久志誕生院に到着。湯川会長からオリエンテーションとして改めて当日の行程が説明され、1市4町の観光パンフレットを配布。昼食を挟み、畠山住職から誕生院の沿革、徳本上人の十念名号碑など案内されながら説明を受けました。学生らはやや緊張気味ながらも真剣な表情で聞き取り、スナップショットを撮りながらメモしていました。

畠山住職より説明を受ける。
十念名号碑、耐震構造が施された立派な石碑です。

一行は、会長の経営するふる里ペンション湯川を見学、名物クエのぼりを学生らで揚げた後、原谷の金﨑竹材店に向かった。
黒竹を一本一本丁寧にあぶることで内部の油成分が表面に浮き出て鮮やかなつやが出ることを初めて知った。
熊野古道の説明は、語り部の杉村邦雄さんが担当、鹿ヶ瀬峠の金魚茶屋で藤原定家・後鳥羽上皇など熊野詣でのエピソードを交え語ってくれました.

鹿ヶ瀬峠の金魚茶屋付近で黒竹を語る。
浜口悟稜 稲むらの火の館へ
東洋のエーゲ海? 白崎は万葉のロマンあふれる場所

広川町に降りた一行は、稲むらの火の館に向かった後、由良町開山興国寺を通過、味噌醤油発祥の寺だと説明されながら衣奈海岸から白崎海岸へ向かった。
日御碕と大賀蓮池を経由してひたすら海岸筋を美浜町の煙樹ヶ浜までドライブ。途中ヨハネス・クヌッセン供養塔や顕彰碑を経て、1日がかりで日高地方巡りを完了しました。
時間の都合上、かいつまんでの案内となったが、次回来られるまでに必要な資料は十分に手渡しており、学生らもおそらく予習は怠らないと思う。
彼らの若さと情熱が、今後日高地方の独創的な観光経営の提案などにいかにつながるか大いに期待したいし、温かく見守りたい。
8/20-21には方杭「荘厳寺」でサマーキャンプでのワークショップを地元中高生を交えて開催することとなった。彼らの今回の日高視察がどのような町づくりに発展するのか?徳本さんという捨世派破天荒な僧侶の人物像に迫りながら語り合いたい。(楠原)

H28.6/11(土) 徳本さんで日高おこし隊 総会 徳本さんフェスタ開催

6/11(土)日高町農業環境改善センター会議室において、「徳本さんフェスタ」並びに「徳本さんで日高おこし隊総会」が開催され、関心のある方々およそ35名が集まりました。今後のワークショップの取り組みのため、和歌山大観光学部の竹林教授と学生4名が出席、魅力あるふるさと日高をいかにPRできるか?その第1歩となりました。
また、昨年栽培したそば粉を使用したお菓子数種類が披露、味はもちろん、ネーミングや色や形もこだわりながら今後の商品化に向けたアンケートも実施されました。
続いて徳本上人誕生院の畠山澄男住職が絵解き説法を披露、上人の出生から往生までの生涯をエピソードを交えながらわかりやすく説かれました。
劇団RAKUYUU松本こうじ代表からは、劇団結成から現在までの活動内容が紹介され、今回上人没後200年を記念して「とくほん」舞台公演を企画制作することになり、RAKUYUUも参加協力することになったいきさつを説明、結成当初より地域に根ざした劇団を目指し、地域の文化向上、振興の役に立ちたいと意気込みを訴えられました。最後に地元の方々と一緒になって芝居を作り、楽しみ、喜んでいただきたいと締めくくられました。

徳本上人の足跡を訪ねて 大阪「箕面勝尾寺」京都「清浄華院・法然院」編

H27.10.20(火)、佳人会という会合のため上洛、少し早めに出発し、4ヶ寺を巡ってきました。

箕面勝尾寺 法然上人ゆかりの二階堂徳本さんは上人を慕い、ほど近くの山麓松林庵で修行する
本堂脇から急な坂道を10分ほど上ると庵の跡が
珍しい六角堂も発見!
勝尾寺山門、真言宗の寺院です
大阪・京都の府境豊能町の梅相院にも名号碑が現存
京都御所にほど近い清浄華院にも徳本上人はご縁があったという、本尊は法然上人座像
本堂では奥さんから徳本行者について説明を受ける

第2回日高念仏大法会 2015.11.22(千津川 尊光寺上人堂)

厳かに大法会がお勤まり

『第2回日高念仏大法会2015』が日高川町千津川尊光寺(通称:上人堂)で2日間にわたり開催されました。第1部では六時礼讃や別時念仏、ご先祖回向が営まれ、多くの参拝があった。第2部は「徳本上人200回忌お待ち受け法要」、第3部は高石ともや氏によるコンサート&講演会が開催され、2日間で県内外より約500名の参拝者が訪問しました。

徳本上人の足跡を訪ねて 岸和田市「正覚寺・光攝寺」和歌山市「無量光寺」編

H28.3.17(木)、日高町観光協会主催で岸和田市 和歌山市の徳本上人ゆかりの地巡りに参加しました。写真を中心に紹介します。

岸和田市 浄土宗正覚寺には数々のゆかりの品が現存
絵像入りの名号
名号掛軸
御厨子に納められた徳本上人像
初公開!木像の中には上人の爪と歯が納められている
歯には「南無阿弥陀仏」の文字が記されている
誕生院と同じ四幅の絵伝が光攝寺にも保存されている
貴重な資料です
上人の所持品 目録
和歌山市寺町の無量光寺には大きな名号碑がそびえ立つ
境内地には徳本上人像が安置

徳本上人の足跡を訪ねて 大滝川初行洞窟(日高川町)

H28.4.16(土)陽気に誘われて午後から印南町川又観音へシャクナゲ鑑賞、ちょうど見頃を迎えていました。その足で徳本さんの初行の地、大滝川森林公園から洞窟まで約15分の山登り。真妻山頂上への登山道の中腹にたどり着く頃には、日頃の運動不足がたたり足腰はガクガク、大汗をかいていました。

川又観音の西洋シャクナゲ
色とりどりの花が満開でした
しばらく見とれています
大滝川森林公園の奥、涼みの滝を過ぎると急な坂道が、、、、
看板がありました、ここから120M なんやたいしたことないわ
ゼイゼイ荒い息を押さえつつ、ようやく到着!
洞窟からの景色はこんな感じ
この洞窟で修行を積んだんですね

徳本上人の足跡を訪ねて 関東編

H28.4.20(水) 関西空港から成田空港へ、千葉県内をレンタカーで走破。銚子市から東京都内、翌21日は都内と松戸市を巡りました。

銚子市内の浄国寺の名号碑
近代的な本堂です
徳本さんは小林一茶とも交流があったとのこと、一茶の詠んだ歌碑が境内の隅に、、
銚子市外山漁港の山手にある共同墓地に名号碑がひときわ高くそびえ立つ
この地で亡くなった「大納屋おさつ」物語の石碑
犬吠埼灯台より撮影
大本山 芝の増上寺 法主は一行院の八木季生前住職です
小石川 伝通院の名号碑
小石川一行院の徳本上人像
1818年10月ここ一行院で往生された
松戸市小金宿の東漸寺にも徳本さんの名号石が存在する
約800Mの参道を歩き境内地へ、、、
墓地の片隅にありました
そして名号碑の左横のお墓はななんと、あの「マツキヨ」ことマツモトキヨシさんのお墓だそうです

のぼり旗(サンプル版)が納品!!(6/1)

日高おこし隊では、会員・賛助会員の募集を開始します。協賛金5,000円につき、のぼり旗1枚をプレゼント。
下部にはお好きな文字をプリントしますので1枚1枚が完全オリジナルです。のぼり旗を町中のお好きな場所に掲げて徳本さんのイベントを盛り上げましょう。

日頃から掲げましょう
サンプル画像です

徳本上人の足跡を訪ねて 信州編 (諏訪市・長野市)

H28.6.6(月)早朝より信州目指して名神高速走破、折しも高速道路集中工事で京都市内、一宮付近で大渋滞となり、中央HWY諏訪IC下車した頃は午後2時、大急ぎで諏訪市の名号碑3ヶ寺を巡りました。

まずは諏訪市の正願寺へ、徳本上人の掛けられた十条袈裟などが安置されていると住職より伺う
境内地の名号石
続いて阿弥陀寺へ、深山の絶壁に名号が彫られています
魔崖の名号碑、およそ5Mもある巨大な名号です
閑散とした山寺の鐘楼、火災を免れる
現在の本堂は火災焼失後善光寺から移設された
本堂の正面名号額は徳本上人の名号でした
徳本さんは第11世阿弥陀寺住職でもある
阿弥陀寺から諏訪湖、晴天時は遠くは御嶽山を望む
歴代住職の位牌
夏場は大学生などがセミナーで合宿するという
正願寺に戻り、隣のお寺「貞松院」へ、ここにも名号碑がある
ご住職の案内で本堂に、すると魔崖の名号碑の原本が蔵に入れられる間際で今ここにあるという
2人がかりで広げると、なんと8Mほどにもなる巨大な掛け軸だった
でかいっ、この法物を来年の徳本上人200回忌に日高町で展示させていただけるよう山田住職に持ちかけると、即答OKとの返事でしたもともと3幅あったそうだが、小石川一行院のものは戦争で焼失、もう一幅は岐阜県のとある寺にあったが現存していないという、貴重な一幅である
諏訪大社本宮を見学して長野市に向かう
諏訪湖を望む
御柱祭で有名だが、今年も死者が、、、
明朝は善光寺さんへ 「牛に引かれて善光寺参り」
本堂西側には名号碑がひときわ目立つ場所にある

 善光寺の境内地に徳本さんの名号碑があるのは意外でしたね。
 信州では「徳本」信仰が篤く、長野県全域に名号碑が点在している。その数およそ200基。俳人「小林一茶」は上人から2回も十念を授かった。
 一茶が徳本さんを詠んだとされる俳句は14首あるのだが、一茶記念館(信濃町)の渡辺学芸員さんによると、二人に特別な親交があったのではなく、一茶が一方的に徳本行者を慕ったのではないか、熱烈な徳本信者であったのでは?と話されたことには少しばかり驚いた。

          徳本の 腹を肥やせよ 蕎麦の花  一茶

徳本上人の足跡を訪ねて  近江編(宗安寺・浄厳院)

7/18、徳本上人遺跡巡拝ツアーが誕生院畠山住職主宰で行われ、43名が早朝より琵琶湖を目指して出発した。

一行がまず訪れたのが彦根城にほど近い「宗安寺」。寺院創建は群馬高崎市の安国寺に由来しており、徳川四天王の井伊直政公が深く関わっているという。

徳本上人が巡拝の折、近江八幡から竹生島に船で向かわれた帰路、時化により彦根に漂着して当寺に一泊し別事念仏を修したことから、上人没後それを記念して「赤門」の外に多くの方に名号を称えていただけるようにと名号碑を建立した伝えられている。
赤門はもとは石田三成の佐和山城の正門で、馬で直接入れるよう敷居がない。

内陣:本尊は阿弥陀如来立像、大坂夏の陣で大阪城仏間より拝持したという
竹内住職より創建について説明を受ける

続いて一行は近江八幡市安土町の浄厳院に向かった。
織田信長が栗東の金勝山に鷹狩りに出向き、浄厳坊で休憩したとき、応誉明感上人に感銘し、安土城下に一行を招き入れ金勝山浄厳院を建立したとされる。
成田住職は、池の近くに徳本行者の「何やら碑」があると口伝で知っていたが、巡拝団一行が境内地にある名号碑を発見、これは間違いなく徳本行者の名号碑であると確認すると、住職もびっくりした様子。全く勘違いしていたと反省されていました。畠山住職は成田住職に名号碑の看板設置を要望されました。

右の名号碑は約100年前当山30世深誉上人の代に建立された。
総高350センチ、碑高150センチ
こんな立派な石碑、ご住職も素通りでしたんかい?


ここ浄厳院は ※「安土問答」の寺としても有名である。

徳本上人100回忌報恩記念と裏書きされている
信長ゆかりの寺を強調される成田住職
仁王も安置されている立派な山門です
本尊は大きな阿弥陀如来 座像でした
琵琶湖を見下ろす高台にそびえる彦根城
眼下は琵琶湖と近江の町並み

※「安土問答」1579年(天正7年)5月、浄土宗浄蓮寺の玉念が安土の町で説法をしていた。そこに法華宗信徒の建部紹智と大脇伝介が議論をふっかけた。玉念は「年若い方々に申し開きを致しましても、仏法の奥深いところは御理解出来ますまい。お二人がこれぞと思う法華宗のお坊様をお連れ下されば、御返答しましょう」と答えた。安土の寺浄厳院の仏殿に於いて宗論を行った。結果は浄土宗側の勝利、その場にいた人々は法華宗の僧に嘲笑を浴びせ、さらにその袈裟を剥ぎ取った。信長は法華宗側に宗論で破れたこと、今後折伏を辞めること、法華宗に一分の面目を保たせた信長に感謝することなどを法華宗側に命じた。