除夜の鐘 考察してみた

 除夜の鐘の回数はなぜ108回撞くのか?とよく聞かれます。
 なぜ大晦日の夜に108回撞くのか考えてみたいと思います。
 回数に限って説明すると、108ある煩悩を除夜の鐘を撞くことで取り除くことができると言われるからでしょうね。
 そして、108の由来におよそ3つの説がありまして、
 ① 人の体や動きを意味する六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)と、三種(好、悪、平)を掛ける、
   心をけがす六塵(色、声、香、味、触、法)と三受(苦、楽、捨)を掛ける。
   掛けたものを足すと計三十六。 さらに三世(過去、現在、未来)を掛けると・・・
             百八つになる。((6×3)+(6×3))×3=108
 ② 人生の苦悩の根本原因の四苦(生、老、病、死)と八苦(四苦+愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、
   五陰盛苦)の語呂合わせで、四苦と八苦を足すと・・・
             百八つになる。(4×9)+(8×9)=108
 ③ 一年の気候を合計。 十二カ月、立春や大寒などの二十四節気、旧暦で五日間を一候として一年を分けた七十二候を足すと百八つになる。 12+24+72=108
といったところです。
 しかしよくよく考えてみますと、私の心の奥深くにある煩悩の数って、こんな数字じゃもの足りませんよね。
 逆にちょっとしたことで煩悩ばかりを増やし続けているのが私の本性ではないでしょうか。

 そもそも煩悩とは何なんでしょうか?
 人間の心の乱れ・汚れを煩悩とすると、代表的な煩悩には、
 ①無明(物事の正しい道理を知らないこと)
 ②欲望(食欲・性欲・物欲・金銭欲・名誉欲・地位欲)
 ③執着心
 ④怒り、腹立ち、そねみ、ねたみ
が挙げられます。

「正しい道理」とは、「諸行無常、諸法無我」(我々の周りにあるすべてのものは常に移り 変わるものであり、実体はないものである)という仏教の教えを意味しています。
 しかし私たちは、その実体のないものにこだわって普段暮らしています。お金であったり、服や貴金属や車であったりと、確かにすぐに消えて無くなるものですし、死んだ後に持って行くことのできないものばかりであります。それは頭でわかっていても、それでもやはりそういったものへの執着を捨てることができないのが私であります。
 そして、その捨てることのできない執着から「いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ」がわき起こってくるのです。隣に倉が建つと腹が立つと昔から言われているのが私の姿なんです。
 さらに、この私の本当の姿にもっとも気付いておらないのが、これまた私なんです。
「人のわろきことはよくよくみゆるなり。我が身のわろきことはおぼえざるものなり。」と、教えて下さる通りで、自分を客観的に見ることのできない私なんです。

 お念仏にいそしむ私たちは、次々と湧き起こる煩悩を自覚して生きてゆける唯一の道があることへの感謝の「ご恩(ゴーン)」と、鐘の音を聞かせて頂けることでしょう。
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