上志賀 十七曲りの地蔵さん
昔、徳本上人の生家の人が上志賀から由良町阿戸に越す山道の
十七曲りに、魔物が出没して行路人を困らせたので,通行人を魔物のいたずらから守るために祭ったと伝えられている。
道祖神的な性格を持ち久しく信仰されてきたが、道路整備と自家用車の普及という交通革命により、この山道も今では通行する人もなく、地元の人以外は余り知る人も少ない。
地蔵さんは上下二体祭られていたが、一体は上志賀の妙願寺に移され、残る一体は由良湾を眼下に今もなお立ち続けているが,ときには花一輪でも供えて往時を偲ぶことも大切ではなかろうか。(以上日高町誌P500)
上志賀妙願寺の地蔵さん
妙願寺に地蔵堂があり、数体の地蔵尊が合祀されている。これらの地蔵さんは、昔は上志賀のところどころに野の仏として散在していたのを,妙願寺の先々代の住職(13代了玄住職)が明治34(1901)年に寺の境内に合祀したものという。
地蔵さんは子供が大好きで、地蔵さんに子供がどんなにいたずらをしても決して怒らず、喜ぶという信仰から,子供のいたずらによる破損が多く、ほうっておくと石片になってしまう心配から合祀したという。子供が夜泣きしたり、かん虫が出たときに親同伴で参詣すると治してくれるといわれている。
また、久志地蔵と同じように母乳を地蔵さんに預けると乳の出が良くなるといわれ、参詣人も多く、色とりどりのよだれ掛けが奉納され、地蔵さんを喜ばせている。
地蔵盆は8月23日の夜、区の行事として持たれ、子供は仏歌の踊りを踊り、大人は盆踊りで楽しく一夜を過ごす。参詣人には紅白の餅が配られる。世話人は区民が順番で当たり、久志と共に地蔵信仰が盛んである。 (以上日高町誌P500~P501)
十七曲がりの石仏
上志賀から阿戸へ越える十七曲がりの頂上にある。
下幅約50センチ、高さ約80センチの蓮弁形の花崗岩の石材を用い、向かって右に地蔵、左に観音像を浮き彫りした連理仏型式をとっている。
また、台座には「無仏世界 度衆生 今世後世 能引導」
文化7年4月□日 上志賀常右衛門
と刻まれている。 (以上日高町誌P1036)
日高町誌に記載されている内容を検証すべく、2017年12月1日(土)、妙願寺「大人の寺子屋」企画、十七曲がり探索ツアーが行われ、地元メンバー10名が参加しました。
ツアーの1週間前、下見を兼ねて7名が山道の中腹まで到達、台風の影響で倒木が道を遮り、大木を乗り越えて登る。
「そういえばここら辺にお地蔵さんあったぞ」と長老が言い出し、左右を見ながら探索、さてはてどんなお地蔵さんだったのでしょうか?
上志賀大池から登ること40分、馬場跡約50メートル先の右上に、日高町誌に紹介されている地蔵さんを発見。日高町誌に記載の「文化七年・・・」はこの石仏だ!と確認しつつも、頂上にあるはずの、向かって右に地蔵、左に観音像を浮き彫りした連理仏型式のものであった。ということは2体の同じ連理仏の石仏がそのまま残されていたということか?町誌の記述が間違っていたのだと気づく。
幅約47センチ、高さ約80センチ、石材は花崗岩ではなく、台座には 正面に「十方 衆生能 引導」右に「文化7年(1811)午4月□日」左に「上志賀 常右衛門」と刻まれているのを確認し、なにはともあれ布袍輪袈裟をまとって献花、重誓偈のおつとめを行いました。
おつとめと石仏の調査を終えて一服した後メンバーは、さらに山道を登り始める。
およそ30分歩いただろうか、ついに由良湾を眼下に見下ろす立派な石仏が姿を現した。
この石仏にも献花をし、讃仏偈をおつとめ、丹念に調査を行いました。
町誌の記述にない「安永四年未八月」が確認でき、中腹の石仏より約40年早く建立されていた。
石材はたぶん花崗岩であろう。
由良湾を見下ろすこの場所は、行商人や峠を往来する人々の一服する場所でもあり、春には大きな桜が咲き乱れ、行楽の場でもあっただろう。
4月3日(この地方では旧節句で花見弁当を持って外出する習わしがある)は月遅れの節句、みんなを誘ってお参りしたいと思う。