江戸をはじめ全国の庶民の苦難を救った清貧の念仏行者。
生涯を修行と布教活動に捧げ、民衆の中に生き、皇族・貴族・将軍家・御三家・御三卿・諸大名をも魅了した名僧。
徳本上人(1758~1818年)は、江戸時代中期、日高町(旧志賀の庄久志村)に産まれました。
4歳の時から念仏を行い27歳で出家。想像を絶する荒修行を続け、40歳を過ぎてから布教のため日本各地を行脚。11代将軍家斉公の母君が危篤の折、江戸城に登城し、念仏を授けたところ数日のうちに回復。帰依者は皇族・貴族・将軍家・諸大名から一般庶民にまで及び、参詣者が一日数万人にのぼることも。徳本文字とよばれる特徴的な「南無阿弥陀仏」の名号は丸みを帯び、終筆がはねあがる。上人は念仏を唱える者に数え切れないほどの名号を配られました。全国に千基以上残る石碑(名号碑)は活動の広範さと、民衆信仰の深さを裏付けています。徳本さんは説法に和歌を取り入れたことでも知られ、晩年、信州地方を旅しており、小林一茶が徳本さんを詠んだ句も14首あります。
徳本さんは文政元年(1818)61歳で江戸小石川一行院にて往生されました。
妙願寺にほど近い、徳本上人生誕地に建つ「誕生院」は、徳本さんに帰依した紀州藩主治宝公が建立。徳本さんゆかりの貴重な品々が数多くおさめられています。是非一度お立ち寄り下さい。
H27.10.20(火)、佳人会という会合のため上洛、少し早めに出発し、4ヶ寺を巡ってきました。
H28.3.17(木)、日高町観光協会主催で岸和田市 和歌山市の徳本上人ゆかりの地巡りに参加しました。写真を中心に紹介します。
H28.4.16(土)陽気に誘われて午後から印南町川又観音へシャクナゲ鑑賞、ちょうど見頃を迎えていました。その足で徳本さんの初行の地、大滝川森林公園から洞窟まで約15分の山登り。真妻山頂上への登山道の中腹にたどり着く頃には、日頃の運動不足がたたり足腰はガクガク、大汗をかいていました。
H28.4.20(水) 関西空港から成田空港へ、千葉県内をレンタカーで走破。銚子市から東京都内、翌21日は都内と松戸市を巡りました。
H28.6.6(月)早朝より信州目指して名神高速走破、折しも高速道路集中工事で京都市内、一宮付近で大渋滞となり、中央HWY諏訪IC下車した頃は午後2時、大急ぎで諏訪市の名号碑3ヶ寺を巡りました。
善光寺の境内地に徳本さんの名号碑があるのは意外でしたね。
信州では「徳本」信仰が篤く、長野県全域に名号碑が点在している。その数およそ200基。俳人「小林一茶」は上人から2回も十念を授かった。
一茶が徳本さんを詠んだとされる俳句は14首あるのだが、一茶記念館(信濃町)の渡辺学芸員さんによると、二人に特別な親交があったのではなく、一茶が一方的に徳本行者を慕ったのではないか、熱烈な徳本信者であったのでは?と話されたことには少しばかり驚いた。
徳本の 腹を肥やせよ 蕎麦の花 一茶
7/18、徳本上人遺跡巡拝ツアーが誕生院畠山住職主宰で行われ、43名が早朝より琵琶湖を目指して出発した。
一行がまず訪れたのが彦根城にほど近い「宗安寺」。寺院創建は群馬高崎市の安国寺に由来しており、徳川四天王の井伊直政公が深く関わっているという。
徳本上人が巡拝の折、近江八幡から竹生島に船で向かわれた帰路、時化により彦根に漂着して当寺に一泊し別事念仏を修したことから、上人没後それを記念して「赤門」の外に多くの方に名号を称えていただけるようにと名号碑を建立した伝えられている。
赤門はもとは石田三成の佐和山城の正門で、馬で直接入れるよう敷居がない。
続いて一行は近江八幡市安土町の浄厳院に向かった。
織田信長が栗東の金勝山に鷹狩りに出向き、浄厳坊で休憩したとき、応誉明感上人に感銘し、安土城下に一行を招き入れ金勝山浄厳院を建立したとされる。
成田住職は、池の近くに徳本行者の「何やら碑」があると口伝で知っていたが、巡拝団一行が境内地にある名号碑を発見、これは間違いなく徳本行者の名号碑であると確認すると、住職もびっくりした様子。全く勘違いしていたと反省されていました。畠山住職は成田住職に名号碑の看板設置を要望されました。
右の名号碑は約100年前当山30世深誉上人の代に建立された。
総高350センチ、碑高150センチ
こんな立派な石碑、ご住職も素通りでしたんかい?
ここ浄厳院は ※「安土問答」の寺としても有名である。
※「安土問答」1579年(天正7年)5月、浄土宗浄蓮寺の玉念が安土の町で説法をしていた。そこに法華宗信徒の建部紹智と大脇伝介が議論をふっかけた。玉念は「年若い方々に申し開きを致しましても、仏法の奥深いところは御理解出来ますまい。お二人がこれぞと思う法華宗のお坊様をお連れ下されば、御返答しましょう」と答えた。安土の寺浄厳院の仏殿に於いて宗論を行った。結果は浄土宗側の勝利、その場にいた人々は法華宗の僧に嘲笑を浴びせ、さらにその袈裟を剥ぎ取った。信長は法華宗側に宗論で破れたこと、今後折伏を辞めること、法華宗に一分の面目を保たせた信長に感謝することなどを法華宗側に命じた。
徳本行者は文化13年(1816)春から秋に掛けて、北国全域を巡教された際に、各地に念仏講を起こし、今も数多くの名号碑が残されています。
文化13年3月に、江戸の伝通院を発った一行が巡った国は、武蔵~上野~信濃~飛騨~加賀~能登~越中~越後で、194日に及ぶ布教の旅をされました。
当時の交通事情はというと、今のように高速道路のない峠越えばかりの陸路をひたすら歩き続ける旅だと思うと、さぞかし大変なご苦労があったことと推察しますが、
今回の名号碑巡りは1泊2日で1,400㌔もの距離を走破しました。
初日は早朝より飛騨高山まで快速運転し、なんと所要時間4時間という短時間でのドライブでした。高山市内の大雄寺という寺院に到着すると、出迎えてくれたのは見事な二本松に挟まれた壮大な名号碑でした。その名号石は高さ4.5㍍、幅1.3㍍もの大きさがあり、台座を含めると6㍍はゆうにある数ある名号石の中でも最大のものだそうです。
大雄寺の書院と本堂をご案内いただき、書院には巨大な自然石を松倉山から引き下ろした際のエピソードを絵にした額が掛けられており、絵を見るだけでも民衆の熱意が伝わってきました。その後、善光寺飛騨別院の名号碑を巡り、早々にR41を北上しました。
富山ICから残雪の絶景、立山連峰を眺めながら新潟県の糸魚川ICまで快調に走行しましたが、県境には有名な「親不知・子不知」という断崖が海岸までせりだした交通の難所があります。
かつて、越後と越中の間を往来する旅人は、この断崖の下にある海岸線に沿って進まなくてはならず、古くから北陸道最大の難所となっています。波間を見計らって狭い砂浜を駆け抜け、大波が来ると洞窟などに逃げ込んだそうですが、途中で波に飲まれ、命を落とした旅人も少なくなかったといわれています。北陸道はそのほとんどがトンネルでしたので体感することはできなかったのが残念です。ちなみに「親不知」の名称の由来は、一説では、断崖と波が険しいため、親は子を、子は親を省みることができない程に険しい道であることから、この名が付いたといわれています。
第二の目的地、糸魚川市能生という集落に着くと、真言宗の金剛院の階段下に名号碑を発見しました。北陸地方には浄土宗の寺院が少ないながらも徳本上人のご巡教の遺跡がはっきりと残存しているのには少し驚いたことでした。
宿泊地の富山に戻る道、魚津ICで下車し、西願寺と専光寺の大名号碑を巡り、専光寺さんでは火災を逃れた真筆名号の軸三本を拝見しました。ほど近い海岸には富山湾を向いて、これまた大きな名号碑が建物の隙間に颯爽と立っており、漁師達の水上安全を願ってのものだろうかと推察しました。
北陸での名号碑はどれも大きく立派なものですねとお寺の奥さんに問いかけると、お墓も大きいのですよ、だって雪が降ると見えなくなっちゃいますから・・・
なるほど、そういうことでしたか?
2日目は富山から能登半島半周のドライブでした。
七尾市にある西光寺の名号碑は、バランスを保つため小さな石を咬ませていました。
でもご安心を!倒れそうな雰囲気は全くありませんでした。
その後、志賀原発のある志賀町役場に訪問、さすが原発の町でした。庁舎は3階建てで設備が整った立派な建物でした。町立図書館に案内されて、志賀の地名の由来や福岡県の志賀島との関係など詳しく説明を受けたのですが、どうにも福岡と能登半島の中間などにそれらしい接点が全く確認できないため、志賀島との関係を実証できないとしか言いようがないと志賀島フォーラムで講演したことがあると説明され、歴史ロマンは検証ではなく探求なんだなあと言い合ってお別れしました。
北陸は,浄土真宗の宗祖「親鸞聖人」が流罪でたどり着いた越後国府や、中興の祖「蓮如上人」が滞在教化された越前吉崎があり、現存するお寺のほとんどが真宗寺院です。
関東・信州・北陸の三回にわたる名号碑巡りを終えて、あらためて思ったことは、徳本行者は捨世僧として修行、教化していただけでは、あれほどの幅広い帰依は受けられない、その要因に、徳本行者のかたくなな伝道布教活動、それに伴う人間関係とまれに見る民衆勧化力、そして時代的背景が働いたことではないかということです。