彼岸に想う

仏教福祉を通して

(H18.9.15付 日高新報)

彼岸に想う ~仏教福祉を通して
         妙願寺住職 楠原 晃紹

 日ごとに金色を増す稲穂の波に秋の深まりを感じ、さてお彼岸が近づいてきました。
 彼岸とは「到(とう)彼岸(ひがん)」(彼岸に到る)のことで、迷いや苦悩に満ちたこちら側の岸(迷いの此岸)に対して、あちら側の岸(悟りの彼岸)、つまり悟りの世界である「お浄土」に往生することを意味しています。

【大切なことを確かめるご縁】
 私たちは普段の生活において、自分の生きている意味・いのちの尊さなど、本当に大切なことを見過ごしているのではないでしょうか。お彼岸は、そのような私たちが大切なことを確かめ、信心を獲得せしめる機会を与えて下さる尊いご縁となります。
 高齢者福祉に限定される話ですが、要介護者の方々やご家族と関わってゆく中に、さまざまな思いが伝わってきたことであります。
 若かりし頃は、家庭の中心となってがむしゃらに働き、あるいは子たちを養育し、やがて老いと共に家庭の中心から遠ざけられ、隅へ隅へ追いやられるご夫婦の心境に触れました。またある時は、心身に不自由があらわれ、介護や看護が必要となり、今日明日にでも住み慣れた我が家を離れようとするなか、わだかまりを捨てきれずにいるお姿に接しました。
 在宅においては、介護放棄や虐待など人権侵害が見えない所でなされていたり、施設においては、そこが近代設備に囲まれた安心空間であっても、本人にとっては必ずしも安住の地ではないようです。
 つまり、大半の方が、こんなはずではなかったと、あて違いの人生に悲嘆したり、身内と離ればなれになって心の拠り所を見失ってしまった失望感の生活を送らねばならないことを知らされるのです。

【むなしく過(す)ぐる人なきおしえ】
 浄土真宗の宗祖、親鸞聖人はご和讃に、
「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」と詠まれています。
 不安や迷いの中にあって、「老・病・死」が現実であることを直視できずに過ごす人生が、いかにむなしい人生かを問いかけ、そして、唯一頼れるもの(まことのみ教え)に出遇い、あて違いの人生だったのではなく、仏さまから願われて生かされているいのちに気づいてゆける人生を歩むことこそが大切だと味わうことができます。

【浅原才市と宮沢賢治の生き方】
 さいちこころは ろくじ(六字)のなかで
 ごおんをもおて はたらくばかり
 わたしや あなたに すくわれて
 ごおんうれしや なむあみだぶつ
 島根県温泉津(ゆのつ)町で下駄職人として生涯を過ごされた浅原才市さんは妙好人(お念仏のみ教えを信奉する優れた念仏行者)で、不安や迷い苦しみを「楽」に転じ、平(へい) 生(ぜい) 業(ごう) 成(じょう)(今ここに到彼岸すなわち往生浄土が定まった身となる)を得て、法楽を味わう楽しみの世界、こころへと換えられ、その味わいを下駄のくず板に数千首もの歌を書き記されました。
 あさましや あさましや 
 あさましは 身のたから
 なむあみだぶつ なむあみだぶつ
 才市爺は、隠し立てできない仏さまのみ光に照らされた我が身を振り返り、「あさましい、あくにん、つまらん、おおばかもの」という表現で、凡夫(ぼんぶ)である自分に気づいてゆかれました。その私が阿弥陀さまの願いに助けられているよろこびは「ありがたい、もったいない、かたじけない、しあわせもの、ごおんうれしや」となって味わい、朝な夕な仏恩報謝の念仏の日暮らしを送られました。
 一方、宮沢賢治さんの「雨ニモ負ケズ」では、『法華経』等にみられる常(じょう)不軽(ふぎょう)菩薩(ぼさつ)の仏教福祉の精神・こころが見受けられます。常不軽菩薩とは、いかなる人に接しても「われ汝を軽侮せず、汝必ず作仏すべし」といって、その人を礼拝・讃嘆され、常に人を軽んじない菩薩さまという意味であります。
「東に病気の子供あれば行って看病してやり、西に疲れた母あれば行ってその稲の束を負い、南に死にそうな人あれば行ってこわがらなくてもいいといい、北に喧嘩や訴訟があればつまらないからやめろといい…中略…みんなにデクノボウと呼ばれ褒められもせず苦にもされず、そういうものにわたしはなりたい」 デクノボウ(凡夫)である私が、この迷いの娑婆世界にあって菩薩となり、すべての人々が幸福になることを願った、実り豊かな社会福祉の精神が「雨ニモ負ケズ」に著されています。

【命の尊さにめざめる】
 介護保険制度施行から6年が経ち、福祉の心や悩める心の「癒し」が色々な現場で取り上げられておりますが、それがお金や時間の代価で得る自己満足なものであるならば、なんともむなしいことではないでしょうか。
お彼岸の今こそ、才市翁の念仏信心に支えられた、凡夫としての報恩感謝の生き方や、宮沢賢治の菩薩行、無償の精神を実践する生き方を鑑(かんが)み、彼の岸を想いつつ、自分の生きている意味・いのちの尊さにめざめてゆかねばなりません。

仏さまから願われて 生かされているいのち