泥に染まらぬ蓮の花

ほのぼの法話

池の中に咲いている蓮華は、車輪のように大きく、  
  青色の蓮には青い光、黄色の蓮には黄色い光、赤色
  の蓮には赤い光、白色の蓮には白い光があり、
それぞれ清らかな香りを放っています。
舎利弗よ、極楽にはこのようなうるわしい功徳の荘厳が備わっているのですよ。
『聖典意訳』

境内の蓮
 昨年から、境内で御坊生まれの「舞妃蓮(まいひれん)」など数種類の蓮や睡蓮を火鉢で育てています。残念ながら舞妃蓮は開花しませんでしたが、今年こそはと水や温度管理を慎重に調整しながらようやく蕾がふくらみ始めました。 火鉢は永きに渡り寒い本堂で多くの参拝者に暖を与えていたもので、その役も灯油ストーブに譲り隠遁生活をしていましたが、蓮のおかげでようやくお寺に出入りする方々の脚光を浴びるときがやってきたようです。 将来、組内の寺院にも分根できればとの思いもあり、古い火鉢を活用して境内で蓮の花を楽しめることを夢見ています。                                          

お浄土の蓮
 さて、阿弥陀さまの西方極楽浄土には、いろいろな色の蓮の花が美しく咲いていて、それぞれ光り輝いていると言われています。仏典によると供華荘厳(くげしょうごん)の功徳が説かれ、最上の華は 「白蓮華」だそうです。サンスクリット語で「プンダリーカ」、漢音写すると「分陀利華(ふんだりけ)」といいます。正信念仏偈にも「是人名分陀利華」とうたわれているのでご存じだと思いますが、念仏の人、信心の人をあらわし、泥中に根ざして咲く清らかな気高い花として最も適した表現だと思われます。初期の仏教では、花びらを散らす(散華)だけでしたが、やがて仏の持花や、現代のような瓶への挿花による荘厳に発展していきました。蓮はインドやベトナムでは国花として有名ですが、南方仏教の国々でも、信者さんが盛んに蓮華を寺院に供えているようです。唐初(618〜706)の敦煌石窟の壁画にも、すでに蓮の華を手に持つ菩薩や散華する天女が描かれています。 なぜ仏教において、これほど蓮の花を重要視するのでしょうか?                   

泥中の蓮
 ご存じの通り、蓮は澄みきったきれいな場所ではなく、汚い泥の中に根を這わせて育ちます。泥の中で成長した蓮はやがて水面に出て花を咲かせます。その花は全く汚れがなく美しいのです。お釈迦さまがこの世のあらゆる汚れの苦しみのなかで、悟りという清らかな気高い花を咲かせたように、古来より蓮の花を悟りの仏花の象徴としてきたのではないかと思います。 その中でも最上の色が白蓮華だというのです。確かに白という色はあらゆる色の原点であって、どんな色にも変わりゆく元の色であるとも言えるのですが、白色ばかりでは少し淋しい気がします。                                            

みんなちがってみんないい
 阿弥陀経には四色(青・黄・赤・白)の蓮が説かれていますが、それぞれの色の蓮がそれぞれの色を持ち、それぞれに光り輝いているからこそ尊いのであり、その色が違うのはなぜかというとそれぞれに役割があるからなのではないでしょうか。会社に例えば、社長さん、取締役さんがいて、部長や課長さんと言った役職者がいて、社員がいる。なかでも派遣の社員やパート従業者もいます。トイレや廊下の掃除専門の方もいます。皆それぞれに役割が分担されて、一生懸命従事しているのです。一つの会社で社長はひとり、社長が何人いても会社は成り立ちませんし、社員がいなければいくら立派な会社でも経営できませんよね。掃除担当の方もそうです。私たちがどこに行っても気持ちよくトイレを使用できるのは、彼らあってのことです。 このようにみると、一つの社会のなかではそれぞれに役目があり、そのうちのどれかが他と比較して劣っているなどとは言えないのではないでしょうか。それぞれの色や光は、個性を持ったままで一つの世界に調和がとれています。人間もそうではないかと思います。一人だけがいくら輝いていても他が輝いていなければ、存在価値ははるかに薄れてしまうでしょう。 みんな違うから尊いのです。

功徳荘厳
 阿弥陀経には「功徳荘厳(くどくしょうごん)」ということばが繰り返しでてきますが、「功徳」は日常生活で「善や徳を積んで得られたもの」という意味で使用されます。しかし功徳は自分の行いの善し悪しで決まることではなく、すぐれた結果をもたらす能力という意味ですから、仏さまのすぐれたお働きを、さまざまなお浄土のお荘厳を見せることで示されています。お浄土に咲く無数の蓮華がそれぞれに光り輝き、仏さまの功徳を知らせるのです。青・黄・赤・白の光が世界中に放たれ、しかもそれぞれの光が私に届き、確かな方向を与えて下さり、まことの道を歩むように働きかけてくださっているんだなあと、境内の蓮を眺めながら「阿弥陀経」の功徳を喜んだ初夏のある日でした。