門徒心得「浄土真宗」

 「門徒もの知らず」と浄土真宗のご門徒さんでも何も知らなくてもええやんと開き直らずに、真宗門徒として心得ておきたいことを無造作ながら羅列しました。

他力本願はあなたまかせ

「他力本願」は他人にまかせる、他人の褌で角力をとるという意味に誤解されて「他力本願ではだめだ」とおっしゃる方もいるようです。
「他力というは、如来の本願力なり」
親鸞聖人は、
自分の力(自力聖道)ではとてもお浄土まいりなどできない私たち(凡夫)を救わずにはおかないという阿弥陀さまのおはたらき(他力回向)によって摂め取られてゆくのだと示され、そのおはたらきにおまかせする以外に道はありません。
「他力本願に生きる」とは、自分では何もしない、消極的な意味でなく、「できない」自分に気づくことであり、自分自身の力のなさ、限界に気づかされ、いよいよ阿弥陀さまにおまかせすることであります。
他力本願によってこそ、私たちは滅びない命を恵まれて、すべてを阿弥陀さまの救いにまかせたまま、
「あなたまかせ」と安心のうちに力強く人生を送ることができるのですね。

正しいご本尊とは?

先日お仏壇を新調されるご家庭があり、若奥さんからご本尊も仏壇に付いているのですが仏像でもよいのかとの質問がありました。お仏壇に合ったご本尊を求めるのが本当なのでしょうか。お仏壇は仏様の「安置場所」ですからご本尊のサイズに合わせてお仏壇を求めることが基本なのです。

浄土真宗ではご本尊は本山から下付していただきます。このご本尊は阿弥陀如来の絵像、または六字名号(南無阿弥陀仏)です。お脇掛けには向かって右に宗祖親鸞聖人の御影または十字名号(帰命尽十方無碍光如来)、左側に蓮如上人の御影か九字名号(南無不可思議光如来)を安置するととり決められています。
ご本尊は仏壇店で購入することもできますが、宗派で制定された正しいご本尊ではないのでお手次ぎの寺院に伺って本山から下付して頂くことが何より大事です。
 また阿弥陀如来以外の諸仏は仏壇には安置せず、過去帳や位牌等はお仏壇の正面以外に置きましょう。

お布施

布施(ダ-ナ)は六波羅蜜の行の一つで法や金品などを施す行為を言います。
 布施行には法を説く法施、財物を施す財施、無畏(おそれなき心)を施す無畏施があります。「布施」は施す側、施される側、そして施されるもの自体が清浄でなくてはなりません。
 法事や葬式でよく話題に上りますが、お布施に「相場」はありません。
 法施を受けて財物を施すのがお布施の本来の意味でもあります。読経の報酬に僧侶にお布施を包むのだと思ってはいけません。また、布施行は奉仕という意味あいを持っています。
 困った人を助けたり金銭や労力を援助する活動をダ-ナ活動と言います。社会で自分にできる限りの施しをさせて頂く事が仏教徒としての本分でしょう。

 無財の七施
1.眼施(げんせ) やさしい眼差(まなざ)しで人に接する
2.和顔悦色施(わげんえつじきせ) にこやかな顔で接する
3.言辞施(ごんじせ) やさしい言葉で接する
4.身施(しんせ) 自分の身体でできることを奉仕する
5.心施(しんせ) 他のために心をくばる
6.床座施(しょうざせ) 席や場所を譲る
7.房舎施(ぼうじゃせ) 自分の家を提供する

たのむ
浄土真宗の聖典では「たのむ」という言葉が数多く出てきます。
 例えば、御文章では「弥陀をたのむ」、「ふかくたのむ」と幾度となく記されています。この「たのむ」を阿弥陀如来にむかって「何かをお願いする」とか、「請い求める」という祈願請求の意味に受け取り、お念仏(南無阿弥陀仏)を称えることによって願いがかなうという誤った意味にとってしまうかもしれません。

「たのむ」は、阿弥陀如来の本願力を「たのみにする」という依憑(よりたのむ)の意味であり、帰命、南無がこれにあたります。
親鸞聖人は「よりたのむ」「よりかかる」「本願他力をたのみて、自力をはなれたる、これを唯信といふ」といわれています。御文章の、「なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなえたらば、極楽に往生すべきようにおもへり」という蓮如上人の言葉に、ふたごころなく阿弥陀如来の本願力にすべてをおまかせする(たすけたまえと弥陀をたのむ)真意がわかるのです。

 つまり、赤ちゃんに戻った気持ちで母親「阿弥陀さま」まかせでいいんですね。

聴聞しよう!!

浄土真宗の法座で勤行とともに大切なのがご法話を聴聞することです。よく気になるのですが、法事の席で読経中は一緒につとめても、おつとめがおわると会席の準備に追われて台所に駆け込むご婦人を見かけますよ。
 また法座でも、たとえ話や雑談ばかりを覚えて、肝心のご法義を聞き漏らしている方もいらっしゃいます。
ご法話は、内容を覚えようとノ-トに記録したり、テ-プに録音したりする必要はありません。大切なのは聴こうとする姿勢なのです。何処からともなく流れる心地よいクラシックにでも聴き入るような自然体で聴聞するうちに、かたくなな私の心が打ち砕かれてゆくのです。

ご法話は決して自分の教養や人格の向上の為に聴くのではありません。聴聞するたびに、救われようのない私に気づかされ、すでに救いのお導きの中に摂め取られているのだとあじわうご法縁なのです。

 ご法話は、我がこととして聞くことが肝要です。けれども、ついつい「いい話」を「これは帰って嫁に話そう」とか、「今度のお説教で使えるネタやな」とか、自分自身が抜けてしまいがちになることだけは勘弁しましょう。

さあ、皆さん聴聞しよう。

仏法の事は いそげ、いそげ!!

「認知症もまんざら悪くないものです」
いつだったか新聞で、在宅介護の投稿欄に載っていました。
数年前から認知症の母親を介護されている方の手記だったと思いますが、母親が認知症になったおかげで、子供の頃によく母親に手を引かれて散歩に連れられた私が、今は母親の手をとり散歩していることがなんとも不思議に思えてならない、とありました。
我が子さえわからないようになった母親を片時も目を離せずに介護する娘さんにとっては自分の時間さえとれずに、辛く悲しい毎日でありましょう。
しかしあてもなく歩き回ったり、オムツをあてている母親を、散歩や添い寝などの介護をする毎日に悲歎して愚痴をこぼすどころか、幼少の頃の思い出が現在と不思議に重なりあい、「認知症のおかげ」で母親とふれあう時間を楽しみ、「まんざら悪くないものです」と良いことばかりが「おかげさま」ではないとあじわい深く記されていたのです。
仕事柄、老後について色々な方と話しあう機会が多いのですが、「だれの世話にもならんぞ」「子供に迷惑はかけたくはない」「ねたきりになるんなら死んだ方がよっぽどましじゃ」
というのが私たちの本音でしょう。
認知症やねたきりには絶対なりたくないとだれもが思うことです。でも、どうにもならないことです。
「どうにもならない」と頭で解っていてもことさら自分のこととなると「なんとかなるやろう」と油断ばかりしている私なのです。
その方は母親の介護を通して、良いことばかりが「おかげさま」ではないとそのままを受け入れることから充実した日々を送られているところに、「心の豊かさ」が伺えるのです。
親鸞聖人は高僧和讃に、
「本願力に遇いぬれば、むなしくすぐる人ぞなき」
とお念仏の教えに遇えば、もはや人生をむなしく過ぎ去ることはないとお示し下さっています。
老いてゆくとは「もう後がないぞ」ということでしょう。「もう後がない」待ったなしに陥ったときに慌てふためき、取り乱したりしないように、阿弥陀如来が本願として明らかにして下さっているのです。
「もう後がない」
このことを蓮如上人のお言葉では、「後生の一大事」と受け止めます。
 上人は、「仏法の事は、いそげ、いそげ」と日々老いてゆく私に一刻も早く信心を頂きましょうと言われています。
「老後のことなんか考えるほど、まだそんな歳やない」と横着にのんびり構えている私に重くのしかかってくる言葉です。
人生は、子育てや仕事に追われて、振り向くこともできずに慌ただしく過ぎ去ってゆくものかもしれません。
なおのこと、お念仏の教えを聞きひらくことも、もう後がなくなってからでは遅すぎるでしょう。
信心を恵まれて老いをみつめると、「むなしくすぎてきた人生」がおかげさまの人生と喜べ、いかなる身(たとえ認知症やねたきり)になろうとも、そのままの私が毎日をたまわったものとして受け止められるのです。
老いて、不自由な身になる前に
「いそげ、いそげ」
と阿弥陀如来はいつも私に手招いておられるのです。

リン(キン)

法事にお参りしてきた方の中に、仏壇の右前にあるリンを無造作に数回叩いた後、合掌礼拝している光景をよく見かけます。リン(真宗ではキンと呼ぶ)をなぜ打つのか問いかけますとその殆どが理由もなくただ目の前に置いているから打つのだそうです。

神社でも皆さん同じような事をされていますよね。鈴を鳴らしてかしわ手を打つ、神様に自分の願いが届くようにとする行為でしょう。
 キンを叩くのも同じと思ってはいませんか。
キンは読経の前後や途中で区切りとして決められた作法で打つものであり、仏前でおつとめの時以外にキンをむやみに叩くのはもってのほかです。
また寺院にあるキンでは大小の鐘や沙羅があり、ほかにも時刻や行事などの合図として打つ梵鐘(集会鐘)、喚鐘(行事鐘)などがあります。

念珠の由来

念珠(数珠)は初期の仏教徒は用いていなかったとされています。インドでは民間で装身具として身を飾ったり、ヒンズー教で早くから用いられていたといいます。
ヒンズー教のシバ神・梵天・弁財天の持ち物として、五十連を重ねたものを用いのが由来であります。
しかし、密教の興隆に伴い重要な法具として位置づけられ、念誦の数を記録すことなどに重宝な為の礼拝具としてより一層普及しました。
法然聖人・親鸞聖人も念珠を用いられたことは当時の御影像によって知るところであります。
経典には、「念珠によって行住座臥に至心から心散らすことなく、そして仏名称する励みになるように」(木槵子経)と記されています。つまり、念珠が散乱心をたしなめ、仏心を思う一端になるようすすめられているのです。
 どうぞ念珠をいつも左手首に携帯して、心乱すことなく日々を過ごしましょう(^ο^)

願力無窮にましませば
 罪業深重おもからず
 仏智無辺にましませば
 散乱放逸もすてられず   (正像末和讃)

現世利益和讃のこころ

中学生のとある日、私は実家の近くの那智山に同級生六人で自転車で登ったことがありました。青岸渡寺にお参りし、那智の滝の滝壺を見に行こうという話になり、石畳の長い階段を下り、入り口で入場料を支払うと白い「家内安全」と書かれたお札(お守り)を貰いました。家に帰って真っ先に父に「これもらったんや、元気にしてなぁ」とそのお札を手渡すと、父は顔色一つ変えずに受け取るやいなや目の前でビリッと破り、ゴミ箱に捨てたのでした。一瞬の、そして無言の出来事でした。
当時の父は単身で京都生活を送り、京都と勝浦を毎週週末に汽車で往復し、病気で入退院したこともあり、病状を子供心に心配していたのでした。
 その後、この地に法灯を継ぎまして、元日修正会に正信偈のあと現世利益和讃十五首をお勤めしていました。
和讃には、「息災延命のために」「七難消滅」「定業中夭のぞこりぬ」「よろづの悪鬼をちかづけず」とあり、お念仏に出遇えたことが苦悩の人生を逃げることなく、確かな足どりで歩んでいけることをただ喜ばれた親鸞聖人のお心がひしひしと伝わってきました。  
浄土真宗の現世利益とは、自分の都合の良いことだけをお願いして叶えてもらえることではないと気づかされ、目の前でお札を破り捨てた父の姿を思い出しました。
およそ、宗教とは現世利益を得るためのものであるという通念があり、信心が深くなるほどご利益をたくさんもらうことができるとされています。熱心に信心してもご利益がなければ「信心が足りないから」と済まされます。
 一般にいう現世利益とは、「家内安全」「商売繁盛」「無病息災」「合格祈願」「景気回復」など現在直面している様々な悩みや苦痛から脱却するための祈願であり、自分の願いが叶うこと、欲望が満たされることをさします。
 親鸞聖人も現世利益について、『浄土和讃』に、現世利益和讃十五首を詠まれましたが、一般にいう現世利益とはその意味が違うことは明らかであります。
 聖人の主著『教行信証』で、阿弥陀さまからの金剛の信心を得たなら、この世で必ず十種の利益を獲させていただくと言われています。その十種とは、
①冥衆護持、②至徳具足、③転悪成善、④諸仏護念、⑤諸仏称讃、⑥心光常護、⑦心多歓喜、⑧知恩報徳、⑨常行大悲、⑩入正定聚
の利益であります。
ここではその全てを解説しませんが、⑩の入正定聚の益(正しく仏に成ることの定まった仲間に入ること)は中でも重要ですので少し説明します。金剛の信心をいただいた念仏者はどのような人生を歩もうとも、どのような形で「いのち」が終わろうとも、いのち尽きたとき私は必ず仏に成らせていただく身となっているという利益です。
不況のどん底で商売がうまくいかずに悩んでいるとき、繁盛すれば有り難いことです。病気で苦しんでいるとき、その病気が治ればとてもうれしいです。志望校に受かって将来を夢見ることも大切なことです。
 このことを宗教に求め、仮にそれが叶ったとしても、ほんの一時的なものに過ぎなく、すぐに別なことで苦しみ、悩んでしまうものです。しかし、お念仏のみおしえはそうした悩みや苦しみを根本的に解決して下さるのです。
病気になろうと健康であろうと、災難に遭おうとも、商売が繁盛しようとも、苦悩の中にあって幸・不幸に左右されない安心の心がいただけるのです。
 「南無阿弥陀仏をとなふれば 十方無量の諸仏は 百重千重囲繞して よろこびまもりたまふなり」(現世利益和讃)
 どんなひどい仕打ちや災難に遭おうとも、死の宣告を受けようとも、この私を哀れみ、慰め、励ましてくれる阿弥陀さまがいつも一緒、親鸞聖人や十方無量の諸仏も私を百重にも千重にも取り囲んでお念仏申す私をようこそようこそといつでもどこでも見守って下さっている、なんとも心強いことです、とお念仏の中に気づかされるのです。真の現世利益を聖人は和讃にお示し下さっています。

「仏 とは」
俗に「ホトケ」という言葉を人間の遺体に向かって言うことがあります。「ホトケ」とは、ケガレ・タタリなどの恐れから、「仏」にあてられたものであります。
 「仏」という言葉は、もとはインドの「ブッダ」という言葉から生じたもので、中国で「仏陀」と漢字に当てられ、「仏」と省略されました。
 「ブッダ」とは全ての煩悩(迷い・苦しみ・悩み)をはなれて、さとりを得た、目覚めた方のことを言います。自ら永遠な真実の世界に生きて、同時に全ての人々を目覚めさせる方ということを意味しています。
歴史上に仏(覚者)として現れた方は、お釈迦さま一人です。如来さまとお呼びしている阿弥陀さまは、時間・空間を超えて、真如・真実からやってこられたとお釈迦さまが説いて下さいました。
 阿弥陀さまとは、いつでも、どこでも、この私に願いをかけ続けて下さっている仏さまです。
 その願いに全てをおまかせして、私が「仏」と成らせていただけるのです。

お供物
 法事の時などに、参拝者からのたくさんのお供物がお仏壇の前にお供えされているのをよく見かけます。
 お仏壇にお供えするお供物は、作法の上から①餅、②菓子、③果物の順に重んじます。
 法事の時などお供物の量が多ければお仏壇の中ではなく、横か斜め前あたりに台やお盆を用意してみてはいかがでしょう。要はお仏壇の中のお飾りを乱さないようにすることです。
 お供え物は、心情的には如来さまやご先祖に「食べていただく」ようにお供えするわけですが、むしろ主食となっているご飯をはじめとして、“私たち自身”が生きていく上で欠かせない物であり、潤いを与えてくれる「食物の代表」であるわけです。そうしたいのちの恵みを、如来さまのお恵みとして心から慶び、感謝する気持ちが大切なのです。
 その意味からもまた、他(よそ)からいただいた物も如来さまにお供えする習慣をつけましょう。そして如来さまからの“お下(さ)がり”としていただくところに、物の有り難さもしみついてくるというものです。