一月(睦月)

損か得か人間のものさし
              南無阿弥陀仏をとなふればこの世の利益きはもなし
                   流転輪廻のつみきへて定業中夭のぞこりぬ 現世利益和讃
 みなさん、あけましておめでとうございます。
新年を無事にお迎えして、「さあ、今年こそは」と、心新たに目標を持たれている方もいることでしょう。
毎年この時期になるとつくづくと感じるのですが、日本人はほんとに多信仰と申しましょうか、一週間前までは「メリークリスマス!」で国中が騒いでいたのがうそのように、大晦日になると、去年一年間に積もり積もった煩悩を払おうと、除夜の鐘を撞きにお寺に出向き、新年を迎えるやいなや、「ご利益」を求めて、神社巡りに没頭している姿に、みんなほんとにええかげんなもんやなあと思うこともありました。

 十円で 家内安全 無事祈る
 と詠まれた方がいらっしゃいましてね。ここのところ不況ですから、初詣の参拝者も千円札どころか十円玉をお賽銭に「無病息災・家内安全・商売繁盛」と、とりあえず何でもかんでもお頼みして、「ご利益」を当て込んじゃえ、てなもんですか。
 「損得勘定」といいましょうか、あれもこれもと欲張りな私の心の内が表れているようです。
この「利益」、経済用語では「りえき」と読みますが、仏教用語では「りやく」といいまして、神仏の恵みという意味だそうです。つまり、私にとって都合のよいことばかりでなく、全ての恵み、そうです。太陽の光や雨風はもとより、私たちが毎食頂いているご飯も、かけがえのない神仏の恵みなのです。
 ですから、私が受ける恩恵は決して「損か得か」の問題ではないし、大金を賽銭箱に放り込んでも、「ご利益」の本当の意味が分からん人にとっては、無意味ばかりか、願いが叶わなかったものなら、落胆して、「神も仏もあるもんか」とでも叫びたくなる心境になるでしょう。
 さっき私は、阿弥陀さまの前でお勤めをして手を合わせていましたが、ここで座っていて何かをお願いするとか、頼むという気持ちじゃなくて阿弥陀さまに見られているというか、そこに座って手を合わせている自分というものを、阿弥陀さまの側からみつめるような不思議な気持ちになってくるのです。つまり、私が私自身を見つめているわけです。
 「私が自身を見つめている」と申しましたが、実は自分勝手で自分の都合の良いことしかおかげさまと素直にいただけない私の全てを、阿弥陀さまは見抜いておられて「ほっとけなぁい」と私のすぐそばで手招きしてくださっているんですね。
 阿弥陀さまのみひかり(慈光)は「ひとり働き」だと常々お聞かせいただいてますが、ほんとにその通り、私の気づかないところで、いつでもどこでも見つめてくださっているんですよ。

  損か得か人間のものさし、うそかまことか仏さまのものさし
 新しい年を迎えて、この言葉をいただきながら、「恵み」という最高のご利益をたまわった慶びをしみじみと味わいたいと思っています。今年も一年間よろしくお願いします。


めでタイ
              門松は冥土の旅の一里塚  めでたくもあり めでたくもなし    一休禅師

 新年を迎えると、なんかこう幸せな気分になって、誰と出会っても「おめでとう」って口に出てしまうんですよね。しかしとんちで有名な一休さんは、正月の京の街を杖に骸骨をのっけて「めでたくもあり、めでたくもなし」と練り歩かれたそうです。
 これを聞かれて「縁起がわるい。」と嫌がられるでしょうが、考えてみますと「縁起」はかつぐものでもないし良い悪いというものでもないんです。でも正月ほど縁起にあれこれという人が多いんじゃないでしょうか。
 例えば、おせち料理。お重の中身はかつぐものだらけですよ。鯛でめでタイ、豆でまめまめしく、田作りで豊年を、昆布巻きでよろコブでしょう。数の子で子沢山と語呂合わせばかりです。
 飾り物を見たって、松竹梅に千両に南天、あっと、南天は難を転ずるらしいですよ。
「縁起」にうつつをぬかす人は本当の意味を知らないんですよね。「悪いことはせんほうが」なんて、善人ぶって言う人もいるけど、「縁起」っていうのは、「縁によって起こる」すなわち、原因があって結果がある(因果の道理)なんです。
 つまり、因果の道理とは、すべてのものはたった一つで存在しているのではなく、いろんなものが関わりあって存在しているということなのです。
 そうそう、例えば園庭に植わっているびわの木なんですが、おのればえなんですよ。開園当時にお昼に出たびわを居室で食べて、外に捨てた種が自然に大きくなってしまったと聞き及んでいますよ。
 びわの種がなかったら芽も幹も葉っぱも出ないし、花も咲かない実もならない。また、種があっても誰かが庭に捨ててはじめて芽がでるんであって、また、水、空気、太陽、土、どれを抜きにしてもこのように育つことはないんですね。
 すべてのものは「原因があって結果がある」んですから、びわの種は、「芽を出すぞ」とか「大きな実をつけよう」などとは考えていないはずです。すべてがありのままに、そのようになっていくんです。
だから縁起かつぎにとあれこれしても、ちっとも意味のないことなんですね。交通安全のお札をもらったって事故がなくなることなんてないし、合格祈願の絵馬を福岡の太宰府天満宮に納めても志望校に入れるとは限らないんです。
因果の道理を知るって、ほんとうに大切なことなんですね。世間では日の善し悪しを言って仏滅なんかを忌み嫌ったりする、それも世代を問わずにそういうことを平気で言ってるのを聞くと、ほとほとあきれるばかりです。
 何でもかんでもこじつけて考えるより、日々刻々と死が迫ってゆくなかムダに過ごさずに、二度と戻らない今日という日をもっと有意義に過ごす方が大切なんじゃないでしょうか。
 だから一休さんは敢えてそのことを、
「めでたくもあり、めでたくもなし。」
とおっしゃったんですよ。

  元旦や 今日のいのちに 遇う不思議