二月(如月)

やぶ椿
                朝には紅顔あって夕べには白骨となれる身なり    白骨章                 
 折からの寒気団で、昨日は園の庭もうっすらと雪化粧されて、慌てて写真を撮りましたよ。この辺でこんなにきれいな雪化粧が見られるなんてねえ。珍しくて子どものころに戻った気分でした。
 でもねえ、あっという間でした。電光朝露というか、雪がやんで日が差してきてしばらくしたら、もう積もった雪はほんのわずか、さっきの雪化粧は夢か幻か、って思わず呆然としてしまいました。
 さて、手芸の時間に作ってたアートフラワーが見事に完成しましたね。毎月和歌山から桜井先生がボランティアで指導に来てくれてますが、ただの新聞紙があんなに美しい花に変身するなんて、ほんとにすばらしいものです。その中でもとりわけ出来ばえがいいのが、赤い椿の小盆栽でした。やぶ椿といって、茶花として使われることが多いそうなんですが、雪景色に似合う花で庭から切ってきてはよく花瓶にほうり込んで飾っていました。
 あったかい室内に置いとくと、じきにポロッと花が首から落ちるんですよね。あれって、ちょっと寂しい気分になるんですが、まだ花びらが半分ぐらいしか開いてない、人間で言うと青年か壮年ぐらいの花も容赦なしって感じでしょうか。
  死の覚悟 いたせいたせと 桜かな
という言葉にもありますように、先人達は古くから人の世のはかなさを花にたとえて味わってこられました。この言葉は小林一茶の作品ですが、春に咲き散る桜吹雪の見事さは言うまでもありません。しかしやぶ椿のように、予期せぬ散りざまも老少不定の現実なんですね。

  朝には紅顔あって 夕べには白骨となれる身なり
 蓮如さまは人の身というのは、無常であるというんですね。
 だから、どの人も阿弥陀さまを深くたのみ、念仏を申してくださいというんです。
 人の身は無常である、だから念仏申せとそう書いてあるんですがここが中々私自身頷けないわけです。
私の散りざまは愛する家族に見送られ、自宅で最期を迎えたい。
 病気や寝たきりにならずポックリと死にたい。
 しかし、そうはいかないのが人生なんですよね。
 思い通りにならない、ままならぬ人生だからこそ、私の想いはからいを超えた世界に生かされていることが知らされるんですね。
 南国紀州では珍しい一瞬の雪景色という人生無常のなかにあって、今日という一日を力強く生きる姿をやぶ椿が見せてくれました。


 鼓 動
      まず、三悪道を離れて人間に生まれたることおほきなる喜びなり            横川法語 

 みなさん、これから10秒間、息を止めてみてください。さんハイ、一、二、三、四、五、六、七・・・十。
どうですか、え、苦しかった?。そうです。息を止めれば苦しいですよね。
 さて、これは何のまじないかと言いますと、実は今、息を止めてみて胸のあたりから「ドックン・ドックン」って音が聞こえてきませんでしたか。
そう、心臓の鼓動です。私が生きている証しなんです。鼓動が聞こえなかった方?、いやこりゃあ大変ですよ・・・。
 確かな「生」を実感していただきました。私たちは、今この瞬間を、間違いなく生きているんです。
 私で二十六年間、みなさんの中には、百年以上もこの鼓動が、片時も休まずにうち続けている方もいると思うと、当たり前が素直に当たり前とは受け取れないような気持ちになりますよ。だってそうですよ、母親のおなかにいるときから動き出して、寝てる時でも仕事しててもいつだって休まず動いてくれてるんですから。
 でも、今、たった十秒間息を止めただけで苦しい。当たり前に鼓動が打っていることに「有り難いなあ」と感じることさえないのは悲しいことなんですね。
 「まず三悪道を離れて人間に生まれたること、おほきなる喜びなり。身は卑しくとも畜生におとらんや、家は貧しくとも餓鬼に勝るべし。この世の住み憂きこと地獄の苦に比ぶべからず。されば人間に生まれたることを喜ぶべし。」
 源信和尚は、地獄、餓鬼道、畜生道の三悪道を離れ、人間としてこの世に生を受けたことを素直に喜んでおられますよ。
 それは、日々の暮らしのなかであらゆる恩恵に対して心から「有り難いなあ」と感謝のできる身にさせていただいたことに他ならないでしょう。
 空気のお陰で、水のお陰で、お米のお陰で、野菜のお陰で、それらを作る農民のお陰で、みいんなみんなのお陰で、この私の「いのち」が支えられているんだということなんです。
 それでいて私はというと、自分にとって「得」になる良いことには「有り難いなあ」って思い、相手に悪いことをすれば「すまないなあ」って思うんですが、ご飯を食べるときにお膳を眺めても、感謝の気持ちやもったいないすまないなんてまったく思わないんですね。それどころか、「まずい」「もういらんわ」などと平気で言ったりして、不服そうな顔をする私でした。
 「病気で寝込んで、初めて健康の有り難さが分かったよ」
と、最近退院された友人から聞きましたが実にその通り、窮地に追い込まれて待ったなしの状態になってから、やっと「有り難い」ということがわかるものなのでしょう。
源信和尚は、こんな私に、「人間に生まれてさせていただいて、何が不服なんや」「早く気づけよ」と報恩感謝の日々を送ることの大切さをお示しくださっているんです。