三月(弥生)

人やさき、人やさき
   「仏法には、明日と申すこと、あるまじく候。仏法のことは、いそげ、いそげ」と、仰せられたり。
                                      蓮如上人御一代記聞書

 昨日のお中日に、お寺で春の彼岸会をお勤めしました。いつもながらのメンバーの中へ、三十代前半の青年がひとり、恥ずかしそうに本堂に入ってこられました。物故者追悼法要では、亡き父をご縁にと、母親につれられて参られたことのある青年でしたが、お彼岸にひとりでこられるのは初めてだったんです。
 ちょうどお墓参りにきていたら、お勤めが始まったんで本堂に上がってきたとのことでした。
 お勤めが終わって法話をはじめましたが、この青年がまだ本堂で座っていてくれてたので、急きょ準備していた原稿とは全く違う話をしました。
『妙好人』浅原才市さんが味わわれた
「親の遺言 南無阿弥陀仏」
「わたしゃしあわせよい身にもろた。ゴーン(ご恩)と鳴ったる鐘の音、親の来たれのごさいそく、浄土へやろうの親のさいそく」
を紹介し、父親をご縁にようこそ、ようこそと法話を締めくくり、その後には、常連のご婦人方から「若いのによう参っておくれたのぉ」などと声をかけられて、喜んでくれました。
 そんなことで、法座にお参りしてくれたこの青年も、今日のご縁で、そのうち毎回参ってくれるんじゃないかなあって思ったんです。
 蓮如上人は、ことさら仏法に関しては、いそがしい仕事をさしおいてでも、若いうちにしっかりと聞かねばならぬ、とおっしゃっていまして、いつもの常連さんには申し訳ないんですが、年をとってひまができたら聞こうと思うのは浅はかなことだ、と続けられています。
「若い内に心がけて聞く」
 何とも、耳の痛い話でしょう。「仏法なんて、年寄りの聞くもんや」「まだまだそんな年やない」って聞こえてきます。
 でも仏法に耳を傾けていると、『老少不定の身』、つまり、明日があると思ってはならないぞと聞かされるのです。

我やさき 人やさき 今日とも知らず 明日とも知らず 
 遅れ先立つ人はもとのしづく 末の露よりもしげしといえり。

私のいのちもそう、一寸先が闇なんです。
いやいや、自分だけはと思っている私にとっては、このお言葉も「人やさき、人やさき」でしょうか。


  ぬるま湯
            弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな
              摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり     正像末和讃
 「夕べ、風呂のボイラーが調子悪かって、なかなか湯船から出られんと、風邪ひきそうやったわ」
 今朝、出勤した私の第一声でした。少し声がしゃがれてしまって、阿弥陀経のおつとめでは何度も詰まったことをお詫びします。
 出るに出られんのは、ほんとにつらかったですよ。いくら待っても蛇口から出てくるのは、体温とおんなじぐらいのぬるま湯ばっかりでしたから。
 長湯の間に、いろんなことを考えていました。
 一月の阪神大震災でのすさまじさが、二ヶ月経った今もニュースや新聞で連日報道されています。先月から緊急で入所されたSさんも、神戸で震災に遭われたひとりなんですが、当時の悲惨な状況とかその後の生活ぶりを、涙ながらに居室でお話ししてくれました。震災直後の神戸は地獄絵図そのものだったと、からだを震わせながら語ってくれました。震災後から今でも地震の恐怖からか夜ぐっすりと眠れたことはないようです。
 住んでいた灘区にある家も大変な被害に遭ったそうで、家屋半壊で命からがら二階から逃げ出してきたと聞きました。

 六道の辻よ いづれぞ それそこに 明け暮れ胸に おこる煩悩

 さて仏教では、六道といって、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上という六つの世界があって、私たちがその六道を輪廻転生して、今人間界に生かされているんだと言われています。
そして、悪いことをすると地獄に堕ちるぞとか、恩知らずは畜生やと、まるで人ごとのように言ったりします。
 でも、彼女の味わった苦しみ、悲劇は、まさしくこの人間界で遭遇した地獄なのです。そうです、六道という世界は死んで巡ってくる別の世界ではなく、日常的に私たちの胸の中に次から次へと現れてくるものなんです。
日暮らしの中でさま々な心の痛みが起こります。たいがいの痛みは、うまいもんを食べたりお酒を飲んだり、一晩寝ると忘れてしまいます。しかし一生、その痛みにじっと耐えながら生きてゆかれる方もいるんです。
 湯船につかりながら、「あたりまえ」のなかでぬくぬくと生きている我が身に感謝しつつ、そんな有り難い心になりながら、出るに出られないぬるま湯にどっぷりと浸かり、「なんでお湯でえへんのや」と、激しく怒り、叫んだ夕べでありました。