四月(卯月)

ちるさくら
                    なごり惜しく思へど   娑婆の縁つきて
                    ちからなくして終わるときに    かの土へはまいるべきなり                     
                                              歎異抄

 道成寺さんへの花見遠足、いかがでしたか。ちょっと肌寒かって、予定よりも早めに切り上げてきたんですが、やっぱり、あの桜吹雪がとっても良かったですね。花見に行けなかった人も、園の庭でお花見弁当を広げたそうで、ここの庭はまだ七部咲き程度でしたが、結構見られるまでに大きくなってきましたね。
桜といえば、この言葉、

  散る桜 残る桜も 散る桜

祖父がよく言ってた言葉を思い出します。
 戦時中は、戦艦「陸奥」に乗り組んでいたが、不意な病気で戦艦を降ろされ運良く難を逃れたと、晩酌をしながら先立たれた戦友達を懐かしんではよく聞かされたものです。
祖父は佐賀の小さな町にある貧乏寺の住職で、裏山にミカン畑を作っていました。晩年モノラックで右足が挟まり、大けがをしたことがきっかけで、右足切断してさらには残った左足までもが壊死により切断され、尻株だけが残る「だるまさん」になりました。
 慢性的な頭痛があり、そのうえ切り落とされて存在しないはずの足の先が「痛い、痛い」と激痛にさい悩まされる日が続き、ある時は入浴中にのぼせてしまい家族が大騒ぎしている最中、自ら呼吸を止めようとしたこともあったようです。そんな姿にこの苦しみから早く解放させてあげたいと、たてまえ抜きで幾度となく思ったことでした。
結局およそ十年にも及ぶ闘病生活の末、力つきて還られていきました。
 一夜の嵐のような散りざまではなかったけれど、しおれてそれでも風に揺られながら最後の一枚まで残った桜の花びらのような散りざまでした。
 火葬したあと、遺骨をひとかけらそっと持ち帰りまして「いつもおいしくいただいたさかなにお礼を」とマグロを好んで食べては言っていた言葉を思い出し、勝浦のお蛇浦という磯に返してきました。
毎年、決まった時期が来ると、必ず桜は咲きます。桜は一週間もすると散っていきますが、その姿を見ると思い出すんです。
祖父の面影を・・・。

 同級生
            如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
              師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし   恩徳讃

  生後8ヶ月を過ぎた娘が、ヨチヨチと四つん這いで、晩酌している私の膝元に座りに来るようになりました。日頃から「パパやで、パパやで」と、耳元で教え込んでいたのが功を奏したのか、最近、はっきりと聞き取れませんが、「パパ、パパ」と言ってるように聞こえることがあります。
 この子が生まれてからというもの、朝起きると布団のなかでぐっすりと眠っている子どもの姿に、息をしていないのではと気になって、慌てて口元に手を当ててみたりちゃんと指五本とも揃てるな、などと独り言を言ったりして、周りにはなんともみっともない親バカぶりを見せてしまいました。
 阿弥陀さまと私たちの関係を、親子の関係にたとえるお話を聞くことがあります。親の愛情子知らずといいましょうか、阿弥陀さまのお慈悲に遇いながら、そっぽを向き、感謝の念すら浮かばない私であるといわれるのです。
 私は四人兄弟の次男、親の愛情は100を四等分した25しかもらっていないかというと、いやいやそうではなく、ありったけの愛情を受けてきたと思うんです。小児喘息を患い発作で死にかけたこともあったというんですが、たしかに頭の出来も悪く病弱でしたので、人一倍手がかかったことでしょう。成人するまでも他の兄弟以上に心配をかけ、母の悲しみの涙もたびたび見ました。

 子をもちし 今の心にくらぶれば 昔は親を 思わざりけり

 今その親となって、親の愛情というものがうっすらと解ったような気がします。とりわけ私のような出来の悪いものほど手をかけてくださっている親の愛情が、阿弥陀さまの一人働きと全く同じであったと思えるようになってきたんですから。
 阿弥陀さまのお慈悲に出遇うと「なんまんだぶつ」と、報恩感謝の心でお念仏を申す身となるといわれます。
この子が私を親にさせてくれたと教えてくれました。
ということは親と子は同級生です。この子が親になったとき、子を見て「同級生や」と思うかな。いやいや、阿弥陀さまの前ではねえみなさん、私たちみんなが「ほとけの子」でありました。