五月(皐月)

誕生日
              本願力に遇ひぬれば むなしくすぐる人ぞなき
                    功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし  高僧和讃
 今月で、川辺園が十五歳のお誕生日をお迎えしましたね。開園当初から入所されている4名のみなさんもお揃いで、玄関前で撮った記念写真もきれいにできあがりましたよ。先日、アルバムの整理をしていたとき見つけた開園当初の写真、当時の殺風景な庭も今ではこんなに立派な木々に囲まれたすばらしい庭になっていて、木の幹にも古さが出てきたように思いましたよ。
 さて、誕生日というと、毎年やってくるあれですよ。え、そんなに嫌な顔せんでもええやないの。
まだお若いのに・・・・。
 もちろん、年々歳をとってゆくのは心もとないことなんですが、この世に誕生したことをもっと素直に喜びましょうよ。
 ふる里近くの捕鯨の町太地には、「くじらの博物館」という施設があります。10メートルを超えるくじらの模型や、アシカ・イルカ・くじらのショーもあって、子どもの頃は来客のたびに、那智の滝と共に、お客さんを案内した観光コースの一つです。
 南紀では、黒潮に近いこともあって、くじらがよく捕れていました。弁当のおかずも当然、くじらの干物が定番で、黒くて堅い肉をいつまでもしゃぶっていたものです。
 そのくじらの年齢を数えるのに、意外な方法を使うんですね。
 それはくじらの耳にたまった垢を分析すると、木の年輪と同じく筋のようになった線があって、その線を目安にして年齢を算出するそうですよ。
 その点、人間はというと、見かけで若く見える人から、私のように老けて見える人までそれぞれです。
 でもねえ、くじらと同じでみなさんがこれまで生きてこられた人生はほら、ちゃんとからだに刻まれていますよ。顔のしわは、それまで苦労されてきた分だけついているし、何気ない仕草にも長い人生経験を積んでこられた苦労がにじみ出ていますよ。

  本願力に遇ひぬれば むなしくすぐる人ぞなき       

 そうですよ、お念仏満ちあふれる人生を送る方々にとっては、無駄な人生なんかひとつもないんですよね。
木々の年輪のように、歳月はくっきりとその人生模様をまるで美しい木目のごとく映し出してくれますから。
 だから誕生日がやってくると、時には立ち止まって今までのことを振り返ることができる機会を与えてくださっているのではないでしょうか。


  銘茶の味
                    煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども                                  
                    大悲ものうきことなくて つねに我が身をてらすなり  高僧和讃

 新緑の美しい季節になりました。今日みたいなポカポカ陽気だと、ついウトウトして、お勤めを聞いてらっしゃった方がいるんじゃないでしょうか。おっと、おばあちゃん本当に寝てるんですか?
 いくら寝ても眠たいですよね、みなさんは早寝早起きの習慣があって健康的でよろしいが、私のほうは結構子どもが寝静まるのが遅くて、それから書き物をしたり読書をすることが多いので、どうしても夜更かしをしてしまいます。そんなとき一杯のお茶がとてもおいしく感じるんです。
 京都の京田辺市というところに叔父と叔母が住んでいて、畑を借りて野菜とかを作っているんですが、そこにお茶畑もありまして、ちょうどこの季節できたての自家製のおいしいお茶を頂いたところだったんです。

 もまれねば この味は出ぬ 新茶かな

 おいしいお茶をすすりながらこの言葉を思い出しました。そういえば幼い頃は裏山で茶摘みをしたなあ、今はほとんど京都のお茶屋さんで買うてくるけど、これは玉露にも負けんうまさやなあと妻と語っていました。
 いや待てよ、新茶のことばっかりやない、人間だってそうや。
 世間の荒波に揉まれ揉まれて、一人前の人間に育ってゆくもんなんや。若いときの苦労は買ってでもしろと言うやないか。
 そこら辺の店で買うた揉みたらんお茶には、この渋みと香りは出やんな。としゃべっていたら、、、、、
妻が「そのお茶、Aコープで買うた安もんや。」と、ぼそぼそと言うもんやから、「それやったらそうと早よ言わんかい。」と、飲みかけてまんざらでもないお茶の味を確かめたことでした。

  浴びる湯も 飲むお茶も被る衣まで
  弥陀の肉体(しむら)祖師の骨髄

 人間の舌なんてええ加減なもんですなあ、思い込みに惑わされて、本当の味さえわからず「あれはうまい、これはまずい」といつも言っているのです。
 煩悩にまなこ障られている私ですので、本当の味はたぶん分からずじまいで終わりそうです。
 そんな私を阿弥陀さまはものともせず、見つめてくださっていることに感謝申し上げるばかりです。