六月(水無月)

  ええ塩梅
              たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の
                  諸仏世界の衆生の類、わが光明を蒙りてその身に
                   触れんもの、身心柔軟にして人・天に超過せん。 無量寿経

 さきほど川辺園の裏にある梅畑でいつものおじさんが収穫作業をしていましたね。この辺は南高梅といって、大粒のおいしい梅の産地なんですが、今その梅取りの最盛期を迎えていますよ。みなさんもしたことがあるでしょうけれど、梅は収穫するとよく洗って塩漬けにして梅干しを作ります。その時の塩加減からちょうどほどよいものを(あんばい)と言って、特にご高齢の方々は普段から、「ええ塩梅やのお」といって、挨拶代わりに使われているんですね。
 そういえば「ええ塩梅」って、口癖のように言ってたおじいさんがいました。
 半年前に亡くなられたんですが、デイサービスの送迎で自宅に迎えに行くと、普段無口な方だったんですが、「今日はええ塩梅やで」と、必ず返事してくれました。お天気の良い日は分かるのですが、雨の日でも曇りの日でも、返ってくる言葉はそれだったんです。
 そのときは何も思わずに時は過ぎ去っていましたが半年前、ここにショートステイでこられてしばらくして急に亡くなられたんですね。亡くなる前日の夕方一緒に相撲を見ていましてねえ。
 自分のひいきにしていた横綱が負けて「ああ、残念やったね。」と聞くと「ああ、ええ塩梅や」と一言だけ返事がありました。
 後日、辞書を引いてみると「あんばい」の字が「塩梅」であることを初めて知ったんです。
 無量寿経に触光柔軟(そっこうにゅうなん)の願があります。
『もし私が仏となることができても、十方世界の人々が私の光明をその身に親しく感じて、身も心も素直に柔ぎ人天を超え、勝れた喜びが与えられないなら誓って仏のさとりを得ることはいたしません』
 阿弥陀さまの光明に遇う者の身心をおだやかにやわらかくする ことを誓った願なんですね。
 み仏さまの光に遇わせていただくと、おのずから身も心も柔軟にならせていただけるとお聞かせいただきますと、塩梅は良いことばかりに使うと思っていたけれど、彼のそれは全く違っていたことに気づかされました。
 おそらく、デイサービスの送迎時の会話は、お天気のことではなく、「おおきに、ありがとう」という意味だったろうし、相撲が負けたときには「しゃあないなあ、次がんばれよ」と力士を励ましていたんでしょうか。
 「ええ塩梅」で人生を送られた彼の人生は、心身ともに柔和な姿で素晴らしかったなあって思いますよ。
 だって良きにつけ、悪きにつけ、程良い加減で何事に対しても「ええ塩梅で」と日々を送られてきたのですから。


 約 束
                          設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国
                             乃至十念 若不生者 不取正覚
                                 唯除五逆 誹謗正法     無量寿経
 先週末は開園当初から入所されていたSさんがお亡くなりになり、この仏間でお通夜とお葬式を出してみなさんとともに見送らせていただきましたね。
 人生無常とは申せ、亡くなられる前日まで元気で過ごされていた
ことを思いますと、定位置でもあったホールのマッサージイスに今でもチョコンと座ってらっしゃるような気がしますよ。
 実は今になって大変後悔しているんですが、そのおばあちゃんと生前にある約束をしておりまして。
 お墓参りに行きたいということで「ふる里めぐり」の企画をしていたんですが、ついつい日程が取れずに延ばし延ばしになっていたんですね。先逝されたご主人のお墓に二十年以上もお参りできていなかったので、心残りだったそうなんですね。
 龍神村ということもあって往復に時間もかかるし、身内もいないのでお墓の場所もわからないまま、半日がかりで自宅跡地や友人宅などを巡っても大丈夫かなぁという不安もあったんですね。
 でもその約束を果たせないうちに亡くなられ、後悔の念にひたっています。
 約束するということの大切さを改めて認識しましたよ。
 さて約束といいますと、仏説無量寿経の四十八願の十八番目に「設我得仏 十方衆生・・・・」とありまして、阿弥陀さまが私たち衆生を救おうと、ある「約束」をされました。
 それはといいますと「十方衆生」を一人も漏らさずに救うぞと約束してくださっているんです。
浄土和讃には
 十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし
  摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる 
とありますように、救わずにおれないとお慈悲の心で今ここで私に「十方衆生よ」と呼びかけて、約束してくださっているんですね。
 妙好人で讃岐の庄松さんという方がいらっしゃって、普段からお念仏のみ教えを喜んでおられた方でした。
 その庄松さんが臨終の床についたときのことです。
 近くの村の市蔵さんというお同行がお見舞いにこられました。
 庄松さんは生涯独身でしたので、一人ぼっちで寝てる姿を見てかわいそうに思った市蔵さんは、彼のために墓を立ててやろうと思ったそうです。
 「あなたが死んだら墓を建てようとみんなで相談したから、あとのことは心配するなよ」と庄松さんの枕元で伝えると、庄松さんは嬉しそうなそぶりも見せず、「おらぁ、石の下にはおらぬぞ」と言い放ったそうですよ。
 庄松さんは石の下で眠っているような方ではなかったんですね。
 今生の煩悩の人生が尽きたなら、お浄土という永遠なるいのち輝く悟りの境界に生まれて行けるんです。
 そして阿弥陀さまと同じ徳を完成したならば、いま阿弥陀さまが、十方の世界にみちみちて生きとし生ける者すべてのものを救っておられるのと同じはたらきをさせていただけるんです。
 私はあのおばあちゃんとの約束は残念ながら果たせませんでしたが、もっと大切な約束に気づきましたよ。冷たいお墓の下で寝ているんじゃない、阿弥陀さまの手足となって私たちを導いてくださる尊いほとけさまに仕上げてくれるという「約束」に・・・。