七月 (文月)

  泥沼の蓮
                      都大路に棄てられし塵芥の堆の中より  
                         げに香りたかくこころ楽しき白蓮は生ぜん   法句経

 昨日のお昼ご飯、おいしく検食しましたよ。筑前煮が特においしかったですね。えっ?もう忘れました?
 そうそう、その中にレンコンが入っていまして少しみなさんにとっては固かったかなって思いましたが、ホコホコしていて味付けも良かったですよ。
 さて、レンコンと言えば蓮。花の咲いている景色をごらんになったことはありますか? 蓮の花は、夏の朝早く開くんですね。咲く瞬間にポーンという音が鳴ると言われますが、聞いたことはありませんがねえ。
 白い花、薄紅色の花、それはそれはとても見事な姿ですよね。蓮の花はなぜあれほど美しいんでしょうね。そしてなぜ昔から尊ばれ、法句経や阿弥陀経などたくさんのお経に出てくるほど仏さまと深く結びついているんでしょうか。
 白蓮華のことを分陀利華(ふんだりけ)とも言うんですが、汚い泥沼にドップリと首まで浸かりながら成長していき、泥に染まることなく清浄な花を咲かせるからにほかならないんですよ。
 香り高く、心を和ませてくれる白蓮の花が咲いている。しかしそれは、人々が棄てた塵芥(ゴミだまり)の池中から生えているというんです。
 法句経では塵芥という言葉で泥沼を表していまして、それは穢れたものの象徴です。一方で清楚な姿の白蓮は浄らかさの象徴です。
 「穢れ」と「浄らかさ」は正反対で対立する概念だと思われていますが、お釈迦さまはこの二つが関係して、塵芥や泥の中から白蓮は生まれると言われているんですね。
 泥と蓮、穢と浄は反対で対立する概念ではなく、一体のものということになります。
ということは、穢土(穢れた世界=この世)と浄土(清らかな世界=極楽)は実は離れては存在しているものではなく一体のものなんでしょう。
  泥沼の 泥に染まらぬ 蓮の花
 つまり、穢れた人間の世界で愛欲や煩悩(いかり・はらだち・そねみ・ねたむ心)に浸かっていて、それを糧にして生きている私。乾いた高原や澄みきったきれいな小川では生きられない私。
 そんな私が汚泥の悪臭にさえ染まることなく、清浄な香りを精一杯発散することができるというんです。
 穢れの中だからこそ浄らかさを生じさせ、煩悩の中から悟りの境地に至ることができるんだといえましょう。
阿弥陀さまはその蓮の台に立っておられます。
 清らかなお浄土から穢れた私たちのこの世に来られて、一人もらさず救い摂ろうとするお姿であったと気づかされるんですよ。

  日曜学校にて
                     かの国には つねに種種奇妙なる雑色の鳥あり  

                        白鵠・孔雀・鸚鵡・舎利・迦陵頻伽・共命の鳥なり 阿弥陀経

 先日デイ利用のおばあさんとの会話で子どもの頃にお寺で勉強を教わったんやという話で盛り上がりましたよ。

 みなさんは子どもの頃お寺で「寺子屋」とか行かれたことありましたか?よく思い出してみてくださいね。

 実家のお寺は勝浦小学校のすぐ横にありまして、昔は寺子屋をしていて後に小学校の敷地としてかなりの境内地が町有地になったと聞いています。

 私もこちらに来てからは土曜日や夏休みに日曜学校を開いて、近所の小学生とほとんど遊んでばかりいますが、お互い楽しく学んでおります。時に宿題のお手伝い、時にテレビゲームの対戦相手、時に恋愛相談などなどです。

 先週の日曜学校では、内陣の前卓にある六羽の鳥の彫刻についてお話ししたんですよ。

 極楽浄土に住む白鵠・孔雀・鸚鵡・舎利・迦陵頻伽・共命という鳥で白鵠(びゃっこう)は白鳥または天鵞(てんが)ともいわれて鶴のような白い美しい鳥ですし、孔雀(くじゃく)は実在の鳥ですから知っていますよね。美しさで人を魅了します。醜いもののない浄土を象徴しています。

 鸚鵡(おうむ)もご存じ、頭に冠羽とよばれる飾り羽根があって、曲がった太いくちばしが特徴です。人の言葉を真似る鳥として有名ですね。舎利(しゃり)は九官鳥に類する鳥で、全身黒く、人間の言葉を覚える賢い鳥とされていますよ。迦陵頻伽 (かりょうびんが)は妙声・好声・美音・妙音鳥などと漢訳されまして殻の中にいるときからよく鳴き、その声はきわめて美しいという鳥ですよ。そして共命の鳥(ぐみょうのとり、ぐみょうちょう)命命鳥とも言われますが、身体は一つで、頭が二つに分かれている烏で、まさに命を共有する鳥です。顔は人の顔、身は鳥の姿であると言いますよ。どんなに顔かたちが違っても、離れていても、関わりないようであっても、命はつながっているということを示してくれます。

 この共命鳥を黒板に書いて説明していますと、高学年のD君が学校の授業みたいやで~というもんですから、学校ではこんな事教えてくれんわなぁと続けました。

 共命鳥には『仏本行集経』という仏典に次のようなエピソードがありまして、カルダとウパカルダという名の二つ頭の共命鳥がいました。ウパカルダは、自分が眠っている間にカルダがおいしい木の実を腹いっぱい食べるため、起きたときには満腹でなにもごちそうが食べれません。お腹は一つだから。いつもこれを不満に思っていたウパカルダは、あるとき毒の実を見つけました。これを自分が食べれば、同じ身体を持つカルダは死んでしまうだろうと考えた  

 ウパカルダは、カルダが眠っている間に毒の実を食べました。案の定、カルダは悶絶して死んでしまいます。しかし当然のことながら、身体は一つなのでウパカルダもやはり死んでしまったというお話なんです。

 話し終えると、みんなでいのちについて考えました。みんな、この物語の真意がどんなに顔かたちが違っても、離れていても、関わりないようであっても、命どうしつながっているやなあって話してくれました。

 幼い頃に聞いたこと、学んだこと、おじいちゃん、おばあちゃんになっても忘れずにいてほしいですよねぇ。