八月 (葉月)

 百日紅(さるすべり)

                      久遠実成阿弥陀仏  五濁の凡愚をあはれみて
                       釈迦牟尼仏としめしてぞ 迦耶城には応現する  浄土和讃
 毎日うだるような暑さが続きますね。もう夏バテ気味というか、でもお腹ばかりはふくれてねぇ。
 寮母さん、それビール腹やって!言わせんといてください。
 さてと、我が家の境内ではこの暑さの中で今が盛りと咲き続けている花がありまして、薄紅色の花を咲かせる百日紅ですよ。
 開花時期が長くて、七月から九月頃まで咲き続けていますね。
 でもよく観察すると、次から次へと花芽が出てきて順番に咲いていることに気がつきました。そうですよね、いくら長持ちだといっても何ヶ月も同じ花びらが咲いているはずがないですもんね。
 「きれいな花をほめる人はあっても 花を生かしている土中の根を思う人は少ない」という言葉に出会いました。
 思わずうっとりするような花を見たとき「うわーっ!」「きれいやなぁ、、」と目を奪われますよね。
 毎年京都本願寺の境内でも菊花展が開かれるんですが、花を観賞するとき立派な花にだけに目が行き、幹や葉っぱはもちろん土中に埋もれている根っこのことを思いやることなんて考えたこともなかったんですよ。
 百日紅の花が咲くまで厳しい冬を乗り越え風雨にさらされ灼熱の太陽に照らされ、それでも元気よく百日間も咲き続けることができるのは、健康な根っこがあればこそではないかと改めて思いましたよ。
 私たちの人生にも当てはまることなんじゃないかなぁ。
 苦しみ悲しみの人生を乗り越えられる、目に見えない大きな根っこがあってこそ価値のある人生を送ることができるんじゃないかなぁって思います。
 親鸞さまは比叡山での20年に及ぶ苦しい修行の末、全ての人が救われる教えに遇わんと山を下りられ、吉水の禅坊に法然さまの元で本願念仏のいわれを聞き、真実に生きる道に目覚めて無上の喜びを得られました。
 そしてそのみ教えに遇えた喜びを
  久遠実成阿弥陀仏 五濁の凡愚をあはれみて
  釈迦牟尼仏としめしてぞ 迦耶城には応現す
 と詠まれました。
 生きとし生けるものを必ず救うという本願を知らしめようと、阿弥陀さまはカピラ城に応身の仏(お釈迦さま)となって現れ、そのみ教えに現に遇えたことをよろこばれました。
 そして生涯本願念仏のいわれを多くの方々に説かれて、報恩謝徳のお念仏の人生を歩まれました。
 親鸞さまの人生のよりどころ「根っこ」はお念仏に生かされたとてつもなく立派なものだったんでしょうね。
 どんな暑さにもくじけず耐えつづけ百日間も咲き続ける百日紅のように、強くたくましく生きることができるこの花をご縁に、見ることはできない「根っこ」を思いつつ、苦悩の人生に耐えてゆくことができるただ一つの道が「お念仏」であったと明らかになったのでした。
   散れば咲き 咲けばまた散る 春ごとの 
   花のすがたは 如来常住(一休禅師)



  逆さ吊り
                        みほとけに抱かれて 君ゆきぬ宝楼閣
                          美しきみほとけと なりましし尊さよ   仏教讃歌
 今日は盂蘭盆会、つまりお盆のお勤めでした。
 この行事は餓鬼道に落ちた母を救う手段をお釈迦さまにたずねた目連聖者が、夏安居(げあんご)の最後の日七月十五日に僧を供養するよう教えられた故事を説いたものが由来だそうです。
 だから「救倒懸」(逆さまに吊るされ、苦しみを受けている死者を救う祭事)とも言われて、後に現在のような祖先を供養するといった儀礼になったとも言われています。
 もっとも関西地方では八月十五日を中心に行われているんです。
 さて、みなさんのご先祖ははたして逆さ吊りになって餓鬼道で苦しんでいるんでしょうか?
 「そんなとこ行ったことある人に聞いてみて」とか「戻ってきた人いないからええとこ行ったはずやろ」と返答されることが多いんですが、困ったもんですわ。
 施餓鬼、灯籠焼き、精霊送り、迎え火、お料具といえば聞いたことある方もいらっしゃいますよね。
 地方や宗旨によって様々ですが、私の所属する浄土真宗ではお盆と言っても平常通りの静かなお盆を毎年迎えるんですよ。

仏教讃歌に
 みほとけに抱(いだ)かれて 君ゆきぬ宝楼閣(たまのいえ) 美しきみほとけと なりましし尊さよ
 という歌がありまして、
「臨終即往生」つまり、私たちが命尽きたその瞬間にほとけさまに抱かれてお浄土に往生させていただき、さらにはほとけさまに仕上げてくださるんですね。
 阿弥陀さまは、法蔵さまという菩薩の位から長い長い間、私たち衆生が地獄や餓鬼道、畜生道に堕ちてゆく姿を見るに見かねて、お浄土という国を建てられたんですね。そして「なんまんだぶつ」というみ名を私たちに届けてくださって、お念仏申すものを救い摂って捨てないという大きなお慈悲の心を持ってほとけさまに仕上げてくださるというんですね。
 そういう意味でとらえると、決して逆さ吊りで苦しんでいる訳じゃないなあと思えるんじゃないでしょうか。
 そうですよ、私たちが決して苦しまないように先手を打ってくださっていたのが阿弥陀さまの大悲であったんですね。
先逝された多くの方々を偲びつつ、お盆のお話とさせていただきます。