盂蘭盆会

お盆は「盂蘭盆会」というように、「盂蘭盆経」の説話が、その由来になっているといわれています。
 ある時、神通第一の仏弟子・目連尊者が、餓鬼道に堕ちていた母親を神通力で見つけました。なんとか救おうとしますが、差し出す食物が皆、炎となって、救うどころか、逆に母を苦しめてしまいます。
 そこでお釈迦さまに救いを請いますと、雨期の安居(勉強会)を終えた後、修行していた僧侶たちに飲食物などを施与するようにいわれ、これを実行したところ、餓鬼道で苦しむ母親を救うことができたという説話です。
 ここで大事な点は、目連ほど修行して神通力を得た方でも、餓鬼道の母に食物を施すことも、餓鬼道から救うことができないということです。
 お釈迦さまがおっしゃるとおり、修行僧たちに施与することで救われたということです。
 供養とは、三宝(仏、法、僧)への敬いの心を形で表すことです。
 母が救われたのは、目連が三宝に施与する姿を通して、母がはじめて三宝の貴さに気付いたからです。この説話は、三宝こそ帰依すべきものであるという仏、法、僧の三宝の尊厳性を示しています。
 また、目連尊者でさえ母親を救うことができなかったというのは、結局、物では人は救えないことも示しています。
 物では人は救えないとは、どういうことか。
 人の心を開き、心境を転換させるのは、物ではなくて仏の説かれた法(真理)なのです。
 法に帰依し、真実の道理に心開かれたとき、はじめて我欲に翻弄される餓鬼でなくなります。そこで、救われたというのです。
 この点が欠落すると、仏教でなくなってしまいます。
 お経に説かれた内容の表面だけをとらえ、しかも餓鬼を怨霊とみなし、それを救うために供物を施せばいいというふうに考えますと、仏教とは関係ない怨霊信仰としての「施餓鬼」になってしまいます。
 一般的なお盆といえば、精霊の送り迎えなど、ほとんどが霊祭りの形態をとっています。
 浄土真宗のみ教えに生きた人びと(先祖)は、お盆の時だけ帰ってきて子孫の供養をうけるような方々ではありません。
阿弥陀如来の本願力によって、さとりの世界であるお浄土に生まれ、常に私たちを見護り導いてくださる方々です。
 亡くなった方も、私たちも、みんな阿弥陀さまのみ手の中でいます。
 生と死を包んで一切を照らしたまう阿弥陀さまを念ずることを通して、はじめて私たちは亡くなった人達との共通の場が与えられていることに気が付きます。
 そういうこの世を超えた領域の確認ができるのが、お念仏の世界です。
 先祖との本当の心の交流は、阿弥陀さまを介さないとできません。
 亡くなった方と阿弥陀さまを通じて会うとき、はじめて愛と憎しみを超えた本当の会い方ができるのです。